日本バングラデシュ協会 メール・マガジン(134)2024年12月号 巻頭言:『憧れのオールド・ダッカ (後編)』 日本バングラデシュ協会監事 村山真弓
■目次
■1)巻頭言:『憧れのオールド・ダッカ (後編)』
日本バングラデシュ協会監事 村山真弓
■2)寄稿:『ユヌス首席顧問(チーフアドバイザー)との出会い』
日本バングラデシュ協会副会長
大橋正明
■3)寄稿:『父森本達雄の思い出~その1~』
東海学園大学名誉教授
森本素世子
■4)寄稿:『バングラデシュ料理に魅せられて 第一回』
バングラデシュ料理研究家
川口由夏
■5)『イベント情報』
■6)『事務連絡』
■7)『読者のひろば』
・メルマガ11月号の各寄稿への読者の感想をご紹介します。
・メルマガ寄稿への感想ほか、お気づきの点など、なんでもお寄せ下さい。
■8)『お詫びと訂正』
■9)『編集後記』
■1)巻頭言:『憧れのオールド・ダッカ (後編)』
日本バングラデシュ協会監事
村山真弓
社会人類学者の高田峰夫先生は、バングラデシュ人にとって、同郷(クニ=デシュ)意識の重要性を論じました(参考文献➀)。チョットグラム(チッタゴン)やシレットに代表されるように各地方に方言がありますし、例えば「ノアカリ出身の人はチャラク(知恵が回る、ずる賢い?)」、といったステレオタイプ的なイメージは、おそらく歴史的、経済社会的な背景があってのことでしょうが、広く共有されているようです。またこうした同郷ネットワークは、あらゆるところで機能しています。1980年代後半以降の日本への出稼ぎ増加の杵柄となったのは、ビクラムプール(Bikrampur、現在はムンシゴンジ県の一部)出身という同郷のネットワークでした。
首都ダッカは、他の首都と同様に全国から集まった人の坩堝です。国勢調査によれば、ダッカの人口は、1974年の約140万人から、2022年には約1030万人まで増加しました。2022年時点では、ダッカ管区(ディビジョン)住民の25.63%、すなわち約4分の1がダッカ管区以外からの移住者でした。人々は同郷意識を大切に持ち続けながら、大都会ダッカで人生を切り開いています。
ダカイヤとは?
ダッカの住人のなかで、生粋のダッカ人と呼べるのは、旧市街・オールド・ダッカの住人「ダカイヤ(Dhakaiya)」でしょう。
私は高校卒業までは群馬県で生まれ育ち、今では東京に住んでいる期間の方が何倍も長くなりました。かといって決して江戸っ子にはなれず、私の子孫もなれないでしょう。それはダッカでも同様です。では、どういう人をダカイヤと呼ぶのかといえば、1965年創設の「ダッカ協会(Dhaka Shomitee)」が1995年に定めた定義は、「1912年の公図に記された土地を現在所有している、あるいは所有したことのある人」だそうです(参考文献➁)。その定義がどこまで共有されているのかはわかりませんが、ダカイヤについては、言葉、料理、服装、祭りなど、明確な社会的、文化的特徴があります。
例えば言葉ですが、オールド・ダッカの誕生がムガル時代にあったことは、前回ご紹介した通りです。その時代の上層階級が用いていた言語は、西から移住してきた支配者の母語ウルドゥー語や、ペルシャ語でした。他方、旧市街の一般の人々が使っていたのは、ベンガル語ではなくヒンディー語、ウルドゥー語、ペルシャ語、アラビア語が混在したヒンドゥスタン語(今も北インドやパキスタン等で使われています)でした。さらに、オールド・ダッカ以外の人々との経済関係の拡大、特に東ベンガル各地で生産される米が輸出品目として重要になると、近郊の住民を労働者として雇用するようになりました。その結果、クッティ(クタは稲の脱穀のこと、クッティはその作業に従事する人)と呼ばれた彼らの言葉が混淆し、クッティ(kutti)との名で知られるオールド・ダッカの方言が発展していきました。このように、ダカイヤの中でも階層による違いがありますが、他方、誰もがウルドゥー語を理解し、話すことができると文献にはありました。私が昨年出会ったダカイヤの大学生も流暢にウルドゥー語/ヒンディー語を操っていました。ただし時代と共に、家庭内でもベンガル語を用いるダカイヤは増えているとのことです。
言語に限らずダカイヤの文化は、ムガル時代からの社会文化的ヘリテージを大事にしています。イスラームの大祭イードやムハッラム(シーア派の重要な祭り)など、宗教的な祭典は大々的に祝われています。基本的に保守的で、中・上層の女性達は長くパルダ(女性を物理的に隔離する慣習)を遵守してきました。また、結婚の式典は他地域よりも長い期間続き、コミュニティ全体の参加が期待されるイベントです。ダカイヤは、ビジネス従事者が多いため、お金も沢山使って派手に行われるのだそうです。
現ダッカ商工会議所の前身ダッカ商業会議所が設立されたのは1958年のことですが、第2代の会頭Nasir Ahmedはダカイヤでした。このようにダッカの経済界においてダカイヤの影響力は大きかったようです。他方、宗教的な保守性は、英領期以後導入された英語教育も含めた近代教育へのダカイヤの参加を遅らせてきました。より良い教育と雇用を求めてダッカに集まる地方都市、農村出身の人々とは対照的でした。
ダカイヤは、自分たちのアイデンティティに高い誇りを持っています。オールド・ダッカは、美味しいビリヤニやラッシーなど食文化でも有名ですが、ダカイヤ以外の人々を「魚と米食いのベンガル人」と呼んだりするそうです。一方で、ダカイヤ以外の人の中にはこのようなダカイヤの独特な文化を異質なものとして、一段下に見る傾向もあります。「シルクのパンジャービーを着て、金のネックレスをつけ、パーンを嚙みながら、細い路地をぶらぶら歩いている」というのが、テレビや映画で描かれる典型的なダカイヤの像だそうです(参考文献➂)。
オールド・ダッカを守れ
少し前10月のことですが、『デイリー・スター』紙が主催した「ダッカ・アウトルック」という公開講義が開催されました。そこで講演したTaimur Islamさんは、Urban Study Groupとう非営利団体の代表で、Save Puran Dhaka (オールド・ダッカを守れ)キャンペーンの主催者です。Taimurさんは、オールド・ダッカを整備、保存して、観光の目玉とするよう主張しました。同団体が設立されたのは2004年、その年、オールド・ダッカのシャカリ・バザール(シャカリとは既婚ヒンドゥー女性が身に着ける、ほら貝のバングルを作る集団)の建物が倒壊し、死者19人を出すという事件がありました。それをきっかけとして、危険な古い建物を一斉に取り壊すべきという議論が持ち上がりました。建築士で、古い建造物が持つ歴史や文化への深い愛着を持っていたTaimurさんらが行動を開始したのはその時でした。それから20年経って、主張に大きな変化がないことに鑑みると、この間、政府の対応に望ましい進展はなかったようです。8月の大衆蜂起の結果生まれた新しい政権に強く期待していると語っていました。
少し前の記事をみるとTaimurさんたちは、地元の若者を巻き込んでオールド・ダッカを歩くツアーを有料で催行していたようです。ムガル時代の隊商宿を訪問した記事などもあり、とても面白そうです。
今も行われているならば、是非一緒に参加してみませんか?
参考文献
➀ 高田峰夫 2006 『バングラデシュ民衆社会のムスリム意識の変動:デシュとイスラーム』明石書店
➁ Khatun, Hafiza 2003 Dhakaiyas on the Move, Dhaka: Academic Press and Publishing Library
➂ Amber, Fariha 2023 ‘My Dhaka: The Dhakaiya Pride’, The Daily Star, April 28.
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