日本バングラデシュ協会 メール・マガジン(153) 2026年7月号 巻頭言:『私とバングラデシュのかかわりの始まりー人道主義の国に惹かれて―』 京都大学東南アジア地域研究研究所 安藤和雄

■目次
■1)巻頭言:『私とバングラデシュのかかわりの始まりー人道主義の国に惹かれて―』
                      安藤和雄
                      京都大学東南アジア地域研究研究所

■2)寄稿:『「Hope Over Fate」:ファズレ・ハサン・アベドの生涯』
                      広島大学CGPセンター長(元JICAバングラデシュ事務所長)
                      平田 仁

■3)寄稿:『忘れられた人々を追って ― Bedeとの出会いー』
                      (一財)日本蛇族学術研究所 研究員/長崎大学大学院熱帯医学グローバルヘルス研究科
                      グローバルヘルス専攻博士後期課程
                      吉村憲

■4)寄稿:『2024年政変 :農村とダカを往復して』
                      京都大学文学研究科・大学院生
                      神品夕莉(こうしな ゆうり)

■5)『第13回社員総会のご報告~第13期理事・監事の紹介』

■1)巻頭言:『私とバングラデシュのかかわりの始まりー人道主義の国に惹かれて―』

                      安藤和雄

                      京都大学東南アジア地域研究研究所

 

バングラデシュの現地の人々に尋ねたかったこと

しとしと地雨が降る梅雨に入って、今年も田打ち車の中耕除草機で水田での除草作業に明け暮れている。自分の年齢のことも考えてエンジンつきの中耕除草機を今年から使いはじめた。一人で黙々と雨の中で作業を続けていると、どうしても長年過ごした雨季のバングラデシュの氾濫原での村での生活のことに想いが向かう。バングラデシュの国、人々の意外性は、私を時にはっとさせる。私は中耕除草機を押しながらそのことを想っていた。雨は私とバングラデシュを結びつける原体験でもある。

最初の私にとっての「はっとさせられた出来事」は、青年海外協力隊員としてノアカリ県の北部に位置するランプール村に、雨季の1978年8月に赴任した時に起きた。私はBVS(Bangladesh Volunteer Service)がはじめた総合農村開発事業に稲作・野菜普及隊員として参加した。日本を出発する前から、赴任したら現地の人に是非とも確かめておきたいことがあった。

 

「日本では、飢饉や食うことに困っていた時代に赤ちゃんを親が殺す、間引き、が行われていたという歴史や姥捨山伝説があるが、バングラデシュにはこんな歴史や伝承はあるのか」

と聞きたかったのだ。誰に尋ねたのかは定かではないが、23歳であった私と同じくらいの年齢のBVSの同僚のボランティアだっただろう。私の質問への反応はよく覚えている。

「なんでそんなことするのだ」

躊躇のない返事が返ってきた。確かに、言われてみればそうだ、と目を覚まされた記憶だけが今もしっかりと残っている。この質問の背景は、私の高校時代におけるバングラデシュとの出会いに遡ることができる。

 

バングラデシュの独立戦争

バングラデシュの独立戦争は1971年3月26日から12月16日で、私の高校2年生のほぼ一年間に重なっている。バングラデシュの独立戦争は、同時期に起きたビアフラ戦争で、やせ衰え、お腹を膨らませ、顔に蠅がとまっている子供の写真と、私の中では連鎖している。ビアフラ戦争は1967~1970年のナイジェリアの内戦、同国の旧東部州のイボ人がビアフラ共和国として分離独立のために戦った戦争で、独立を認めないナイジェリアによる封鎖で多くのビアフラ国の民間人が餓死した事で知られる(https://ja.wikipedia.org/wiki2026年7月5日)。バングラデシュ独立戦争は、私にとっては、食糧難、飢饉、飢えと結びついていた。独立戦争の直前、バングラデシュでは、1970年11月に50万人が亡くなったとされるボーラ・サイクロンが起き、独立戦争の引き金の一つとなったとも言われている。そして、独立戦争当時、現在のような大河川とその大きな支流はフェリーでの渡河であったが、その間をむすぶ橋や道路は意図的に破壊され、その後1974年雨季の大洪水、この年の8月にバングラデシュ政府は公式に飢饉宣言を出している。高校生であった私に、バングラデシュの人々が日々の食糧に困り、病気と虐殺に苦しみ、とんでもないことが起きていたこと、バングラデシュから目を離さないでほしいという、二人の世界的な歌手のメッセージが届いたのだった。

1971年8月1日にニューヨークのマディソン・スクエア・ガーデンで、ジョージ・ハリスンが主「バングラデシュ難民救済コンサート」を開催し、アルバムとドキュメンタリー映画『バングラデシュ・コンサート』が作成され、その中で、ジョージ・ハリスンは「Bangla Desh」を歌い、世界に向けて配信された。コンサートには出ていなかったジョーン・バエズは、独立戦争の悲劇を1971年に「Song of Bangladesh」として作成し、1972年4月に発表している。Bangladesh, Bangladeshの連呼からはじまる透き通ったジョーン・バエズの歌声は、決定的にバングラデシュの存在を私に植え付けた。二人とも人道主義(ヒューマニズム)に生きた実践者である。

ビアフラの飢え、飢饉、栄養失調と病気への強い衝撃は、私の中でバングラデシュがビアフラに重なっていたのだった。ビアフラはバングラデシュのように独立できなかった。そのことも関係していたのだろうか。このエッセイのために調べてみると、バングラデシュの独立戦争をビアフラの二の舞にしてはならないという人道主義の声も決して小さくはなかったようである(Lasse Heerten & A. Dirk Moses (2014) The Nigeria–Biafra war: postcolonial conflict and the question of genocide, Journal of Genocide Research, 16:2-3, 169-203, DOI: 10.1080/ 14623528.2014.936700、https://doi.org/ 10.1080/ 14623528.2014.936700)。バングラデシュは、飢え、飢饉、貧困、虐殺等々、世界の人道主義の象徴のような存在だったのである。

 

江戸時代の間引き・子返しの習慣

当時23歳の私にとって、日本の飢え、飢饉の悲しい歴史の象徴は、江戸時代後期に行われた農村部での「間引き」「口減らし」という嬰児の殺害であった(以下の記述は、豊島よし江「江戸時代後期の堕胎・間引きについての実状と子ども観 (生命観)」『了徳寺大学研究紀要 (10)』: 77-86, 2016.によっている)。母親が赤子の口を手で塞ぎ、お尻を押さえつけている絵も同論文では紹介されている。江戸幕府は1767(明和4)年に間引き禁止令を出していることから、これは、農民が飢えを恐れて自主的に行った悲しい歴史的事実であることがわかる。間引きは、隠語として「子返し」とも言われたのは、「7歳までは神の領域に属するもの」として「子どもを神に返す」という古来の日本人の精神があったことと、全国的な貧しさゆえの習慣であったという。姥捨山伝説は歴史的事実として確認されていないようなので、説明は省きたい。

 

江戸時代の間引きは、飢饉や飢えとともに、限られた狭い農地ということで、さも当然のように一般的には受け取られてきたのではないだろうか。しかし、私はこのことについて、特にバングラデシュで気づかされて以来、疑問を抱いてきた。一つには、村には隠居制度があり、男親は隠居して長男に家督をゆずって、次男、三男をつれて山野の開拓に従事したことが知られている。飢えの恐怖を乗り越えようと農民たちは努力していたのである。間引きは、本当に、飢えや飢饉への恐怖だけからなのかという疑念である。豊島(前掲)は、間引きされたのは女子が多かったことを指摘し、男子は家の継承、祖先を祀り、年老いた親の扶養、労働力としての役割の期待があったことを述べている。日本の現在にも通底している男性優位における女子の悲しみである。

 

現代のバングラデシュの嬰児殺し問題

バングラデシュでは嬰児殺しは現在の問題である。しかし、日本のような飢え、貧しさ、飢饉に結びついた問題というよりは、南アジア特有の強い男児嗜好と、娘を結婚させる際に新郎側に多額の現金や財産を支払う法律では禁止されているジョウトゥク(「持参金(ダウリー)制度」)の習慣により、胎児の性別が分かった時の中絶も含めて女子の嬰児殺しが報告されている(Taqbir Huda, On sexism, son preference and female infanticide in Bangladesh, 18 August 2017,The Daily Star-Online,https://www.thedailystar.net/opinion/society/sexism-son-preference-and-female-infanticide-bangladesh-1450642, 2026年7月13日)。

BVSのボランティアが即答したように、バングラデシュでは、「間引き」「子殺し」は、飢え、飢饉、貧しさと結びついた、社会一般に受け継いできた歴史的事実ではない。タンガイル県D村の友人のアッケルさんにこのことについて確認すると、最近は、スマホの普及やSNS上での情報もあり、嬰児殺しのニュースに接する機会が多いという。女子の殺害が多いが、貧しさ故の男子の「子殺し」も起きているとも言っていた。ゴミ捨て場で嬰児が発見されるケースが多いと言う。アッケルさんは、近年の傾向だとも言っていた。私が青年海外協力隊員、JICAの専門家として活動していた時には、村周辺の嬰児殺しは話題にもなっていなかった。恐らく胎児の性別が生まれるまで分からなかった当時は、胎児の性別による中絶は起きていなかったことだろう。1978年かに始まり1990年代の前半まで、私はバングラデシュに長期滞在した。村々は、今ほど豊かではなく、まだまだ村人たちは皆が貧しかった。しかし、村人は、私に貧しさ故の卑屈さを感じさせなかった。そこに、「間引き」「子殺し」の歴史がないことに通じるバングラデシュの人たちの人道主義を感じることができた。貧しさ、飢えを建前とした「間引き」「子殺し」は、日本の社会がもつ同調圧の象徴的な歴史であったように私には思える。

 

今一度、平和と人道主義を

バングラデシュの独立戦争でバングラデシュの人々は「平和と人道主義」を世界の人々に問い質した。現在の世界情勢において、世界の人々はバングラデシュの独立戦争やビアフラ戦争の歴史に学び、今こそ「平和と人道主義」を復活すべきだと私は強く思う。戦争を止めることができ、世界が一つになるためには、「平和と人道主義」が不可欠である。バングラデシュの嬰児殺しの悲惨さも、世界の人々が人道主義の立場から自分の問題として考えてほしいと願っている。

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