日本バングラデシュ協会 メール・マガジン(42号) 2018年1月27日
■目次
1)『 日本バングラデシュ協会メルマガ42号会長メッセージ
―ムジブル・ラーマン3月7日演説のユネスコ世界記憶遺産登録― 』 会長: 堀口松城
2)『現地だより Shororitu (六季の国) 、バングラデシュ』 株式会社キャット 桑江央
3)『現地で見たロヒンギャ難民の状況の報告会』
4)『事務連絡』
■1)『 日本バングラデシュ協会メルマガ42号会長メッセージ
―ムジブル・ラーマン3月7日演説のユネスコ世界記憶遺産登録― 』 会長: 堀口松城
「世界記憶遺産」は、ユネスコが文書、絵画、楽譜、
いる歴史的に貴重な資料を登録保護し、
度ですが、後にバングラデシュの初代首相となるムジブル・
3月7日、
を訴えた演説テキストが、昨年11月1日、
て認定されました(注)。
この認定を受けて、昨年12月8日、
催された際、この全演説を収録したフィルムが上映されました。
ル・
らの権利を守るには、
のためには大きな犠牲も覚悟しなければならないことを、
って国民に訴えたものですが、その姿を映像で見ていると、時折、
衆の一人として聞いているような錯覚に襲われる迫力を覚えました
説の要旨を紹介したいと思います。
同演説は、「私の兄弟たちよ」という呼びかけで始まり、
ます。
「現在, つらいことは、ダッカ、チッタゴン、クルナ、ラジシャヒ、
ルの街路が、同胞の血で染められていることである。今、
るのは自由であり、生存であり、自らの権利である。
うのか。
(先の選挙で)
。本来なら、我々の国会が間もなく始まり、憲法を起草し、
経済的、政治的、文化的自由を享受するはずであった。
々は、過去23年間の哀れな歴史を悲しく語らなければならない。
、死と向かう国民の号泣の歴史である。バングラの歴史は、
で真っ赤に染めた歴史なのだ。」
この後演説は、1952年選挙時の流血、
項目綱領運動と弾圧、
との秘密会議の顛末、
する武力弾圧を見て、自分は、
こと等の経緯を説明した後、再び「私の兄弟たちよ」と呼びかけ、
した。
「今日のこの時点をもって、
機関は無期限に閉鎖される。ハルタルに当たって、
、ハルタルから力車、貸馬車は除外され、
用人は毎月28日に給料を引き出す。給料が支払われない時、
射され、私の兄弟が再び殺された時に、
に要塞を築き、
。
私がみんなにこれ以上の命令を出せなくなったときは、
を無期限に閉鎖して欲しい。我々は彼らを餓死させ、
できるだろう。
(西パキスタン兵に)諸君は我々の兄弟である。
も諸君に何も言わないから我々を撃たないで欲しい。
とは何もない。諸君は7,
既に死を知っているので、
我々アワミ連盟は、
に全力を尽くすだろう。資金援助のできる者は、できる範囲で、
我々の救済基金に寄付して欲しい。全ての工場主は、
べての従業員に給料を支払ってほしい。
公務員に言いたいのは、
点から我が国の自由が達成される日まで、税金は支払われない、
だろう。よく聞いて心にとめて欲しいのだが、
忍び込んでくるだろう。
ヒンドゥーも、ムスリムも、ベンガリもまたベンガリでない者も、
住む者はみな兄弟である。みんなを守る責任はみんなの側にある。
れの形にせよ損なわれることのないようにしよう。
ラジオ局、テレビ局の社員は、
ベンガル人はだれも放送局に行ってはならない。
放送されない時は、誰もテレビ局に行ってはならない。
2時間だけ、みんながサラリーを取りに行けるよう解かれる。
東ベンガルから西パキスタンには、
電話は東パキスタン内でのみ使える。
し続けるだろう。しかし、みんなは、
少しでもないか、十分警戒しなければならない。
(西パキスタン兵に) 私は諸君に要請する。諸君は私の兄弟である。この国を地獄
に変えたり、滅ぼしてはならない。
もしわれわれが物事を平和裏に解決できれば、
いくことができる。それゆえ私は諸君に要請したい。
。
第二に、全ての村、地域、ユニオン、部落において、
抵抗評議会を作って欲しい。
。我々は既に犠牲を出しているが、もっと出すことになるだろう。
の恩寵により、我々は必ずやこの国の人々を解放するだろう。
今回の闘争は我々の解放のための闘争であり、
ョイ・バングラ」。」
(注.「世界記録遺産」との名称は、
たため、我が国においては2016年、「世界無形文化遺産」
英語名の「Memory pf the World」を受けて「世界の記憶」と改称されました。)
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