日本バングラデシュ協会 メール・マガジン 70 号(2020 年 4 月号)巻頭言: 『コルカタからバングラデシュ文学を眺めて』(東京外国語大学准教授 丹羽 京子 )他
日本バングラデシュ協会の皆様へ
■目次
1)巻頭言: 『 コルカタからバングラデシュ文学を眺めて』
東京外国語大学准教授 丹羽 京子
2)特別寄稿:『ハシナ首相が見せた娘の顔 』
-ムジブル・ラーマン生誕 100 周年シリーズ No.4-
駐バングラデシュ特命全権大使 伊藤 直樹
3)現地便り:『令和初 それいけ 春祭り』
ダッカ日本人会春祭り担当理事 上村 修
4)青年海外協力隊 OB/OG 便り:『私にちょうだい -帰国直前にスーツケースを盗られて-』
ジャマルプール県村落開発普及隊員 酒井強志
5)イベント、講演会の案内
6)『事務連絡』
1)巻頭言: 『 コルカタからバングラデシュ文学を眺めて』
東京外国語大学准教授 丹羽 京子
コルカタで出会った『赤いシャールー』
大部分の会員のみなさまと異なり、留学生活をコルカタで送ったのちも西ベンガルとの繋がりが強いわたしは、ベンガルと言ってもそのほとんどをインド側で過ごしている。そういうわたしだが、あるときいつものようにコルカタでその年の夏休みを過ごしていて、ふとした拍子にバングラデシュの小説を読んでぞくぞくする体験を味わったことがある。その小説の名は『赤いシャールー(Lāl Sālū)』、作者はショイヨド・ワリウッラである。同じベンガル語なのに、なにかが違う、方言使いだけではない、そのドライな語り口、突き放すような終局。ここでその詳細を語る余裕はないが、聖職者にして偽善者のモジッドを巡るこの小説は、それまで読んできたどんなベンガル小説ともまるで違っていた。 そもそもわたしが長く暮らしたコルカタでは、バングラデシュ文学はそれほど親しまれていない。分離独立以前の伝統を共有しているこのふたつのベンガル文学は、47年以降別々の流れを持つようになり、少なくともコルカタでは、バングラデシュ の出版物はそれほど出回っていない。前述の『赤いシャールー』は、バングラデシュでは、およそある程度教養のあるものなら読んだことがないということはあり得ないだろうが、コルカタでこの本を手に入れようとすると、バングラデシュの出版物専門の本屋さんまで足を延ばさなければならない。
もちろんわたしの周りには文学関係者が多いので、そうした人々はバングラデシュの文学について知ってはいる。けれども 一般の読書人がそれほどバングラデシュの作品を読まないのは、分離独立後の東西ベンガルがおよそ異なる歴史の道筋を辿ったからだろうか。バングラデシュの詩であれ、小説であれ、避けては通れないテーマとなっているエクシェ・フェブラリー事件(1952 年 2 月 21 日)や独立戦争(1971 年)を、インド側のベンガル人は共有していない。こうした作品に対して 東西で温度差があるのはいたしかたないのかもしれない。
コルカタで読んだ「聞き手」
そうしたなか、ある日コルカタの新聞に目を惹く記事が載っていた。バングラデシュの詩人、シャムシュル・ラーマンの新しい詩集の書評が載っていたのだ。コルカタのその評者は、ある作品にあらわれる「ベンガル抒情詩のような月」という表現に注目していたのだが、語るうちに気持ちが高ぶっているようなその解説につられて、わたしもすぐに本屋に走った。急いで 頁をめくると、「聞き手」という短い詩に先の語句が出てきたのだった。その詩はこのように始まる。
午後にここにやって来るなり、その人は
呆然とする。なんという喧騒、だれもだれかの話を
聞いているようには思えない。言葉の数々が
石か煉瓦のようにひっきりなしに投げつけられる。
群衆、喧騒、大声で話す人々。そうした情景は東も西も変わらない。そうしたなか、「その人」はなにごとかを伝えたいと思っているのだが、だれも耳を傾けてはくれない。
彼らに聞かせたいことがあった、
けれど、だれも話を聞こうという
熱意を瞳に宿らせてはいなかった。
ただ飛び散るだけの喧騒が、彼らの主だった。
その人はついに語りたかったことを
胸の内にしまい込み、歩いて、歩いて、立ち止まる、
生い茂る木々のなかで。その口からは高らかな声、木と鳥と
孤独、そしてベンガル抒情詩のような月が、彼の聞き手であった。
これが「ベンガル抒情詩のような月」なのである。詩人にとっての心の支え、すべてを包み込み、幾千万の聞き手にもまさる存在。古くからベンガル人が慈しみ、育ててきた抒情詩のような月。そしてそれは東と西の詩人にとってまったく等価の意味を持っている。ひとつのベンガルはふたつになった。そしてふたつでありながらひとつでもある、と思った瞬間であった。
付記)再び拙訳で恐縮だが、『赤いシャールー』および「聞き手」の収録されている『バングラデシュ詩選集』は大同生命 国際文化基金より出版されているので、詳しくはそちらをご覧いただければ幸いである。
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