日本バングラデシュ協会 メール・マガジン 75号(2020 年9月号)1)巻頭言 『ことばの歴史はベンガルの歴史』 東京外国語大学大学院教授 元理事 丹羽京子

日本バングラデシュ協会の皆様へ

■目次
1)巻頭言:『ことばの歴史はベンガルの歴史』

東京外国語大学大学院教授・元理事 丹羽京子

2)現地便り:『 バングラデシュ南部避難民(ロヒンギャ難民)キャンプの現状と赤十字の支援』

日本赤十字社国際部国際救援課救援係長 片岡昌子

3)会員便り:『バングラデシュの村における開かれた家族生活 ―タンガイル県の事例から―』

名古屋大学特任助教授・会員 杉江あい

4)理事寄稿:『ムジブル・ラーマンの公賓訪日をめぐる驚き』

-ムジブル・ラーマン生誕 100 周年シリーズ No. 9-

理事 太田清和

5)理事寄稿:『バングラデシュの独立プロセスと日本の関わり』

-バングラデシュ独立・国交 50 周年シリーズ No.4-
東パキスタンと日本:1960 年代

理事 太田清和

6)イベント、講演会の案内

7)『事務連絡』


 

 ■1):巻頭言: 『ことばの歴史はベンガルの歴史』

東京外国語大学大学院教授・元理事 丹羽京子

1.ベンガル語は英語に侵食されている?

ベンガル語で話をしていて、そこに混ざる英単語の多さに驚いた経験を持つ人は多いだろう。電話をするのに「phoneコラ(コラは「する」という動詞)」と言うのはいいとして、人と「会う」ことを「meet コラ」と言うようなたぐいのものも多い(まさかベンガル語に「会う」という語彙がないわけではない)。大学を指すのに「ビッショ・ビッダロエ」という立派なベンガル語があるのに university と言ったほうが通りがよい、ということもある。こちらのベンガル語が拙いせいかもしれないが、相手が英語の語彙をどんどん混ぜていった末に、いつのまにかまったくの英語で話している場合すらある(そして当人がそれに気づいていない場合も)。
もちろんバングラデシュでもそうした状況に警鐘を鳴らす向きも少なくない。筆者も幾度となく、昨今では「純粋な」ベンガル語を聞くことが少なくなったという嘆きの声を耳にしている。はたしてこれはどの言語にもあり得る変化のひとつなのか、それとも本当に危機的な状況なのか、それがふと気になってベンガル語の語彙について調べてみたことがある。

2.ベンガル語の語彙の内実とは

ベンガル語の語彙は、通常「トトショモ」「オルド・トトショモ」「トドボボ」「デーシー」「ビデッシー」の 5 種類に分類される。この覚えにくい(そして通常は覚える必要もない)5 つの用語のうち、前 3 種はすべてサンスクリット語由来の語彙である。それが 3 種もあるのは、ベンガル語に入ってきた時期がまちまちで、それによって「ベンガル語化」の度合いが異なるからなのだが、最初の「トトショモ」はほぼサンスクリット語のままのかたちを維持したもの(ただし発音はベンガル語化している)、「オルド・トトショモ(半トトショモ)」は音も綴りも多少変化しているもの、そして最後の「トトボボ」はサンスクリット語起源でありながらほとんど見分けがつかないほどにベンガル語化しているものとなる。
実はベンガル語は 1000 年以上の歴史を有していながら、分離独立以前は公用語として使われたことのない言語である。そうしたなか、ベンガル語はもっぱら文学用語として、特に韻文の世界に支えられて発展してきたのだが、近代以降の英領時代、散文および文語体の急速な発達に伴ってあらためて新しい語彙が必要になった。その際に大量にサンスクリット語から取り入れられたのが「トトショモ」や「オルド・トトショモ」なのである。
さて、ベンガル語の語彙のうち残りの 2 種であるが、「デーシー」は「現地の」、「ビデッシー」は「非現地の」という意味になる。すなわち「デーシー」がベンガル語固有の語彙と意識されていることになるが、実はこれらの多くはドラヴィダ系(現在の南インドで主に使われる言語の系列)、もしくはオーストロアジア系(サンタル語などが含まれる言語系列。ついでながらこの言語群は稲作と強い結びつきがあるとされる)の語彙であることがわかっている。つまり、ベンガルがアーリア化する以前から居住していた人々のことばをベンガル語は引き継いでもいるのである。そして最後の「ビデッシー」はいわゆる外来語を指し、もちろん英語の語彙もここに含まれる。ただしベンガル語の場合、その歴史を反映してペルシャ語もしくはアラビア語からの外来語が多い。

3.語彙は変化する

ベンガル語の語彙を概観すると、その中核を占めているのが「トドボボ」と「デーシー」であることが見て取れる。サンスクリット語に近い「トトショモ」もかなりの語彙数を数えるが、これらは文語体がすたれ、文章が口語化していくにつれ減る傾向にある。日本語でも言文一致体が推進されたころ二葉亭四迷が「国民語の資格を得ていない漢語は使わない」と言ったのと同じように、作家のプロモト・チョウドリや詩人ブッドデブ・ボシュはベンガル語の口語化を訴え、「トドボボ」はよいが、「トトショモ」はなるべく排するべきであると訴えた。また、そもそも「トトショモ」は文語体を整えるに際し、それに主に関わったサンスクリット語学者によってペルシャ語系、アラビア語系の語彙より優先的に用いられたもので、「イスラム化」の様相によっては、それがまたアラビア、ペルシャ語系の語彙に置き換えられることも考えられる。

4.ベンガル語のなかの英語

さて英語の語彙であるが、現在使われているのは 1,000 語程度であると見られており、まだまだペルシャ語やアラビア語系の外来語に数の上では及ばない。ベンガル語に混ぜて使われる英語の場合、university は「ユニバルシティ」、hospital は「ハシュパタル」に近く、発音はかなりベンガル語化されているのもサンスクリット語のケースと同様である。とはいえ、歴史がまだ浅いこともあって現状ではせいぜい「トトショモ」レベルであると言えるだろう。そしてベンガル語自体が英語に侵食されてしまうということがあり得るのかといえば、中世の長きにわたってサンスクリット語をお手本としつつ、言語自体がサンスクリット語化したわけではないことを考えれば、それはないだろう。あり得るとすれば、ベンガル語よりも英語のほうが得意なベンガル人が増えることだろうが、ベンガル人の感覚からすると、ベンガル語が第一言語でなくなった時点でそれはもはやベンガル人とは言えないのではないだろうか。なにせ辞書で引いてみても「ベンガル(Bangla)」と「ベンガル語、ベンガル人(Bangali)」がほぼ一体化している地域なのである。
このように、ことばの変遷を見ていくと、なにを取り入れてなにを取り入れないか、そして結局のところなにが「ベンガル語」を形成する要素となっていくのか、ことばの歴史は、文化の歴史そのものであり、その意味でも英語との関係が今後どのような道筋を辿るのかに興味は尽きない。

 

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