日本バングラデシュ協会 メール・マガジン120号(2023年10月号)巻頭言:『勢いづくバングラデシュ現代美術界(2)―バングラデシュ・ビエンナーレ』 福岡アジア美術館 学芸員 会員 五十嵐 理奈
日本バングラデシュ協会の皆様へ
■目次
■1)巻頭言:『勢いづくバングラデシュ現代美術界(2)―バングラデシュ・ビエンナーレ』
福岡アジア美術館 学芸員
会員 五十嵐 理奈
■2)会員寄稿:『バングラデシュ・地球と人にやさしい最強の食卓』
特定非営利活動法人 アジア砒素ネットワーク
石山民子
■3)会員寄稿:『会員寄稿:ムジブル・ラーマンの公賓訪日(その3)
-50年前の1973年10月:名実ともに兼ね備えた訪日-』
会員 太田清和
■4)理事寄稿:『約17年ぶりに直行便再開。高まる人材交流への期待とバングラデシュの魅力』
日本バングラデシュ協会理事
(株)Kaicom Solutions Japan
代表取締役 ダス・アンジャン
■5)講演会・イベント
■6)事務連絡
■7)『読者のひろば』
・メルマガ9月号の各寄稿への読者の感想をご紹介します。
・メルマガ寄稿への感想ほか、お気づきの点など、なんでもお寄せ下さい。
■8)編集後記
■1)巻頭言:『勢いづくバングラデシュ現代美術界(2)―バングラデシュ・ビエンナーレ』
福岡アジア美術館 学芸員
会員 五十嵐 理奈
2010年以降、経済成長とともに勢いづくバングラデシュの美術界。国、財閥、そして民間のアート・スペースによる国際展をとおして4回シリーズで紹介します。
バングラデシュ・ビエンナーレ
「第11回バングラデシュ・ビエンナーレ」2004年の会場風景。祝祭的なイベントとして、家族連れでにぎわう。
昨年2022年12月、コロナでの中断を挟み、4年ぶりに「第19回バングラデシュ・アジア美術ビエンナーレ」(以下、バングラデシュ・ビエンナーレ)が開催された。ビエンナーレとは、隔年で開催される現代美術の展覧会のことで、国内外の美術作家が参加する大規模で祝祭的な国際展である。国際展としては、イタリアの「ヴェネチア・ビエンナーレ」(1895年〜)が有名だが、欧米以外にもサンパウロやデリー、ハバナ、台北、光州、上海、シンガポールなど、日本では福岡、越後妻有、横浜、愛知など各地で開催されるようになり、観光産業や地域振興と結びつく公共事業的な側面もある。バングラデシュでは、独立10年後の1981年からアジア地域に参加国を絞った「バングラデシュ・ビエンナーレ」が開催されてきた。
「バングラデシュ・ビエンナーレ」は、文化庁の国立芸術機関バングラデシュ・シルポコラ・アカデミー(以下、シルポコラ・アカデミー)が主催する国際展で、オリンピックのような国別参加方式をとり、授賞制度がある。1981年の第1回展はアジア14カ国の参加だったが、2000年代に入ると、日本を含めたアジア各国に加え、中東やオーストラリア、東欧などまで含めるゆるやかな「アジア」のくくりで40ヵ国以上、600点以上の作品が展示されるまでに大規模化した。
「第15回バングラデシュ・ビエンナーレ」2012年の参加日本作家UJINO (宇治野宗輝) による《The Rotator》シリーズ。
日本からの参加は、国際交流基金の文化芸術交流事業のひとつと位置づけられ、第1回展から毎回キュレーター(コミッショナー)を立てて日本作家の選考をし、作品のみならず、美術作家を現地に送り込んできた。日本作家の作品は、当時のバングラデシュ国内ではほぼ見る機会のなかった大規模なインスタレーションや新しい技術による表現、パフォーマンスなどで、ほぼ毎回、最優秀賞や優秀賞を獲得し、現地の美術作家たちに少なからず多様な表現の可能性を示してきた。同時に、日本の美術作家にとっては、未知のバングラデシュの地での展示や制作活動のプロセスが刺激となっていた面もある。「バングラデシュ・ビエンナーレ」にとって、国際交流基金による資金的サポートもある日本作家の参加は、展覧会の質の上では欠かせないものだった。しかし、2016年、日本人も犠牲となった人質テロ事件以後、国際交流基金は本事業から撤退し、以後、本事業を通しての日本作家の参加はなくなっている。バングラデシュ・ビエンナーレ側も、この時期から国際展の組織・運営方針の変更を模索し始め、現地の作家がセクションごとの担当キュレーターとなるなど試行錯誤し、現在は国別に各国のコミッショナーが作家・作品選考をするのではなく、全世界からの公募制となって、2022年の第19回を迎えた。
「バングラデシュ・ビエンナーレ」のはじまり
第1回バングラデシュ・ビエンナーレの会場前にて、日本側コミッショナーの瀬木慎一(右から2人目)とサイード・ジャハンギール(右から3人目)ら。
バングラデシュ独立後、独立を導いたムジブル・ラーマンは、独立戦争で国土が疲弊し、物資が乏しい状況にあっても多様な文化を尊重し、美術を振興することを目的に、1974年、シルポコラ・アカデミーを設立した。このアカデミーが「バングラデシュ・ビエンナーレ」を立ち上げ、また美術のみならず、舞踏や演劇などの広い分野の芸術に関わる活動を精力的に行ってきた。ビエンナーレ拡張期にディレクターを務めたシュビル・チョウドリ(Subir Chowdhury)によれば、バングラデシュでビエンナーレという国際展を開催しようと考えたきっかけは、インドにあった。シルポコラ・アカデミー設立後の1970年代当時、インドのデリーでは、アジアで最も早い1968年より「インド・トリエンナーレ」がすでに開催されていた。そこにバングラデシュを代表する作家を送り出していたシルポコラ・アカデミーのスタッフたちは、「インドで国際展が出来るのであれば、自分たちだって出来るはずだ」と考えたという。
他方で、この同時期、福岡では、福岡市美術館の開館に向けて「アジア美術展」の準備が進んでいた。「バングラデシュ・ビエンナーレ」とは対象とする地域の範囲は異なるが、同じ「アジア」の美術展を目指していた福岡では、アジアからの参加国のひとつのバングラデシュの作家選考をシルポコラ・アカデミーに依頼していた。当時のディレクター、サイード・ジャハーンギール(Syed Jahangir)は、福岡市美術館で1980年に開催された「アジア現代美術展 第二部」に参加することで、「バングラデシュ・ビエンナーレ」のための国際展の実施・運営体制を学んだ、と話す。知られざる日本との関わりを背景に、1981年「第1回バングラデシュ・ビエンナーレ」が開幕した。
これから−
「バングラデシュ・ビエンナーレ」は、参加国も作家数も多い大規模な国際展である。組織・運営の見直しはされてきたものの、残念ながら質の高い作品を選び、展覧会全体として何かを主張するような国際展にはなっていない。それでも、30年以上に渡って数十カ国の美術機関や作家たちと交渉し、ある特定の期間、バングラデシュに作品を集めて展覧会を作っていくだけの労力と熱意は並大抵のものではなく、公的機関であるからこそ開催でき、現地の美術作家たちの国際的な発表の場としても意義があった。しかしながら、2010年代に入り、民間企業や財閥が国際展を開催するようになると、「バングラデシュ・ビエンナーレ」の地元美術界におけるプレゼンスは低下し、また当初より地元作家から批判されていたキュレーション(企画・作家選考による新しい価値の提示)不在の問題が顕在化した。美術を取り巻く新しい状況を反映しつつ、独立後の混乱期にバングラデシュ・ビエンナーレを始めた時の熱い心にかえり、この歴史ある取組みを活かした国際展へと脱皮することを願う。
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