日本バングラデシュ協会 メール・マガジン(149) 2026年3月号 巻頭言:『VSOのジムとその友人たちから教えられた民主主義』 京都大学東南アジア地域研究研究所 安藤 和雄

■目次  
 *目次の見出しをクリックして頂ければ、直ちに本文に移ります。  

■1)巻頭言:『VSOのジムとその友人たちから教えられた民主主義』
                      京都大学東南アジア地域研究研究所
                      安藤 和雄
■2)寄稿:『没後50年を経て開催された写真展に見る、バングラデシュの記録』
                      一ノ瀬泰造アーカイブ 永渕教子 
                      (一ノ瀬泰造姪)
■3)寄稿:『バングラデシュ留学生アラさんに聞く』
                      元丸紅ダッカ支店長・国際大学 理事長補佐
                      佐野 智哉
■4)寄稿:『バングラデシュとの出会い』
                      名古屋市立大学大学院 人間文化研究科 講師
                      山田翔太
■5)『イベント情報』
■6)『事務連絡』
■7)『読者のひろば』
・メルマガ2月号の各寄稿への読者の感想をご紹介します。
・メルマガ寄稿への感想ほか、お気づきの点など、なんでもお寄せ下さい。
■8)『編集後記』

■1)巻頭言:『VSOのジムとその友人たちから教えられた民主主義』
                      京都大学東南アジア地域研究研究所
                      安藤 和雄

ジムとの出会い
 青年海外協力隊員時代には、仲間の隊員との交流や、現地のカウンターパートや活動で知り合った職場や村の人々のほかに、他国のボランティアとの交流がある。私の任期は1978年8月から1981年4月、任地はノアカリ県の現在のショナイモリ郡(当時はベガムゴンジー郡ショナイモリ・ユニオン)、所属先は、当時では珍しい民間のボランティ団体Bangladesh Volunteer Service(BVS)で、農村開発の一環で野菜や稲の栽培普及を担当していた。先輩隊員がいない新規の派遣であった。東パキスタン時代に日本の農業技術協力の拠点であったコミラの農村アカデミーが50㎞ほど北に位置していて、そこに1年前に派遣されていた野菜隊員の佐藤三郎さんが、野菜栽培を農家に普及していた。村には東パキスタン時代の日本人専門家から実際に野菜や稲の日本的栽培方法の指導をうけた農家も健在で、佐藤さんや農家から多くを私は学んだ。私の記憶が間違っていなければ、佐藤さんが住んでいたのがオベイアスラムとよばれたコミラの街にあった古いレンガ造りの建物で、ここには農村開発アカデミーの創立者であるアクタル・ハミッド・カーンも住んだことがあったと聞いていた。ここに足繁く私は通っていた。
 オベイアスラムに、青年海外協力隊員とともに、イギリスのVSO(Voluntary Service Overseas)から派遣されたジムが住むようになった。ジムも私も出会った時は24歳ぐらいだった。ジムは農業機械というか農具の改良を専門としていた。青年海外協力隊時代には現地の人たちから多くのことを学んだが、私にとって忘れられない恩恵は、VSOのジムと知り合ったことである。ジムと知り合うことがなかったなら、今でも私は民主主義の真髄を実感することはなかったと確信している。ジムとジムの友人たちがその経験を私に与えてくれた。

ジムの友人たちとの任国外旅行
 青年海外協力隊には任国外旅行という制度があった。1980年の2月にネパールのトレッキングにでかけようという計画がジムとの間で持ち上がった。私はその旅行に任国外旅行の制度を利用した。この旅行に参加したのは、ジムと私以外に3人のジムの友人たちだった。チッタゴンでVSOのボランティアで働いていた第二次世界大戦の退役軍人のSさん(大変申し訳ないことだがジム以外は名前を思い出せない)、イギリスからバングラデシュに来てくれたTさん。そして、インドのウエスト・ベンガルで医師の研修をおこなっていたUさん。いずれも男性で、60歳は超えていると思われたSさん以外のT、Uさんは、ジムや私と同じくらいの年齢だった。
ダッカから、独立戦争の時に多くの難民が徒歩で抜けたジェソール街道を通って、ベナプールに陸路で向かい国境を越えた。記憶を辿れば、インド入国後、列車でカルカッタに夕方に到着した。宿の予約もなく、サダルストリートにあったモダンロッジの受付のフロアで寝させてもらった。翌日、私たちは、ウエスト・ベンガル州のサンタール民族が住む少数民族地域を目指した。場所の名前は憶えていないが、そこでUさんと落ち合った。数日留まり、Uさんが働くサンタールの村を訪問した。次に、ビハール州の州都パトナに向かった。途中、どこかで宿泊したかもしれないが定かでない。パトナでは大きなシーク寺院を尋ねた。タクト・スリ・パトナ・サーヒブ(Takhat Sri Patna Sahib)だったろう。パトナから国境の街ラクソールでインドを出国し、ネパールのビルガンジーで入国した。一泊して翌日陸路カトマンズーに到着した。
トレッキングのやり方で私とTさんとの意見が対立した。ジムたち4人とカトマンズーで結局別れることになった。Tさんはあくまでコンパスと地図をたよりに独力で行いたかった。私は、シェルパ族のポーターを雇って、ウルドゥ語で話しをしながらトレッキングに行きたかったのだ。ネパール人はヒンズー語がよく分かり、ウルドゥ語とヒンズー語はサバイバル・レベルではほぼ共通していた。ノアカリで雇っていた使用人のカレックさんからサバイバルのウルドゥ語を私は少し習っていた。カレックさんは東パキスタン時代に、カラチにいた経験があり、ウルドゥ語が話せた。私はトレッキング以外にも現地の人との交流を楽しみたかったのだった。

生活の中で確立している民主主義の土台
 ジムたちと別れた後の話は省くが、私とTさんとの考えの違いは、日本人とイギリス人の国民性を感じさせるが、Uさんと合流してからの一週間近くの5人での陸路の毎日が刺激的で驚くことばかりだった。私たちは朝起きるとかならずチャ・ドカン(茶店)に行って、まず、ミルクティーを注文した。自然発生的にUさんがリーダーとなった。外で対面となるように椅子に腰かけ、ゆったりとティーを飲みながら当たり前のようにミーティングが始まる。その日の予定を決めた。Uさんは、一人ずつ意見を順番に聞いていった。私は英語が得意でないという意識をもっていたので、いつも、ジムの隣にすわった。ジムにベンガル語で「私は皆の意見に従うから」といった。Uさんは「安藤の意見をいってくれ」と決まって催促した。これはモーニング・ティの時だけではなく、ホテル(食堂)で食事の料理を頼む時もそうだった。必ず一人一人の選択をUさんは確認して、皆もそれぞれ自分の意見を、これも当たり前の態度で言っていた。私は相変わらず「皆に合わせる」と小声のベンガル語でジムに伝えると、それに反して、私の選択をしっかりと求められた。これが、一週間ほど毎日つづいた。Uさんの考えもあったことだと思うが、ジムも、Tさんも、Sさんも、片言の英語の私の考えを待った。日本の社会しか知らなかった私にとっては、驚きとともに、大変、新鮮な体験だった。彼らから、民主主義とは何を大切にするのか、民主主義の本質とは何かを学んだ。それ以降の人生で立ち返るべき原点の一つともなった。100年経っても、逆立ちしても日本でイギリスのように民主主義が育つのは難しいと、率直にその時に感じた。今もその思いは変わらない。
民主主義は手続きだともよく言われる。しかし、その手続きは、個々人の考え、意見を、忍耐強く聞くことである。私が日本の学校教育などで学んだ多数決や少数意見の尊重といった数の原理ではない、個人の自由と存在の尊厳のようなものである。個人の意志や考えを発言し確認することを面倒だと躊躇する傾向がある日本では、個人の自由と存在の尊厳は民主主義の文脈ではそれほど意識されていない。選挙は民主主義の根幹となる手続きだが、忘れてならないのは、その根底にあるのが、よい意味で個人主義が社会に定着していることだろう。
日本では、衆議院選挙が、バングラデシュでも国政選挙が2026年2月にあった。いずれでも三分の二以上の議席を一つの党が占め巨大与党が出現した。見方によってはかなり危なっかしい政治状況でもあると言えるかもしれない。こんな時だからこそ私はバングラデシュの縁で出会ったイギリスの友人たちが教えてくれた、生活の中で確立している民主主義の土台に思いがおよんだのだった。

続きは下記をクリックしてください。

この情報へのアクセスはメンバーに限定されています。ログインしてください。メンバー登録は下記リンクをクリックしてください。

既存ユーザのログイン