日本バングラデシュ協会 メール・マガジン(142)2025年8月号 巻頭言:『タケダ・ホリプロバ日本旅行記と映画『日本妻』(タンビル・モカメル監督)』 神戸女学院大学国際学部・准教授 南出和余

■目次

■1)巻頭言:『タケダ・ホリプロバ日本旅行記と映画『日本妻』(タンビル・モカメル監督)』
神戸女学院大学国際学部・准教授
南出和余

■2)寄稿:『34年ぶりのダッカ再訪記』
元ダッカ日本人学校教諭  小出 勝義 (静岡県島田市在住)
(1988年4月~1991年3月まで在任)

■3)寄稿:『「フォキルの人生〜クシュティア・ラロン廟へ」(前編)』
映画監督/映像ディレクター
阿部櫻子
■4)寄稿:『バングラデシュ料理に魅せられて」第三回』
バングラデシュ料理研究家
川口由夏
■5)『お詫びと訂正』

■6)『事務連絡』

■7)『読者のひろば』
・メルマガ7月号の各寄稿への読者の感想をご紹介します。
・メルマガ寄稿への感想ほか、お気づきの点など、なんでもお寄せ下さい。

■8)『編集後記』



■1)巻頭言:『タケダ・ホリプロバ日本旅行記と映画『日本妻』(タンビル・モカメル監督)』
神戸女学院大学国際学部・准教授
南出和余

 

  • ホリプロバを描いたドキュメンタリー『日本妻』

タケダ・ホリプロバ(Hariprabha Basu-Mallik Takeda:1890–1972)をご存知でしょうか。ホリプロバは20世紀初頭に日本からダッカに渡った日本人の武田和右衛門と結婚、1912年に夫と共に初めて日本に渡りました。その時の彼女の旅行記『あるベンガル婦人の日本訪問記(Bongomohilar Japan Jatra)』が刊行されたのは1915年のことです。ロビンドラナート・タゴールの日本紀行文『日本旅行者(Japan Jatri)』より1年早く、ホリプロバの目から見た大正時代の日本の日常生活や一般の人々の様子が、当時のダッカの人々に伝えられていたということになります。しかしこの貴重な資料が発見されたのはつい最近のことです。英国のIndia Office Libraryに保管されていたマイクロフィルムから、当会のメンバーでもあられるジャーナリストのモンズルル・ホク氏(Monzurul Huq)が掘り起こし、1999年にダッカの出版社Sahitya Prakash Publishersからその復刻版が、ホク氏による序文をともなって出版されました(富井1999)。ベンガル語から日本語への翻訳は富井敬氏によってなされ、『遡河』第10号(1999年)と第13号(2002年)に掲載されています。

私が大学で学生たちと一緒に取り組んでいるバングラデシュ映画に字幕をつけて大阪アジアン映画祭で上映する試みについては以前に紹介しましたが、それを経験した学生たちの中には大学院に進学し、さらに翻訳の専門性を身につけようとする学生もいます。そうした大学院生と一緒に今年度前期に字幕翻訳を手がけたバングラデシュ映画が、タンビル・モカメル監督によるドキュメンタリー映画『日本妻(The Japanese Wife/Japani Bodhu)』(2012年)です。この映画は上記ホリプロバの旅行記を元に、彼女の日本での経験をたどりながら、おそらく記録に残る最初の日本とバングラデシュの国際結婚カップルであろうホリプロバと和右衛門から現代の日バ国際結婚カップルへと受け継がれる敬愛、両国間の壁を乗り越えて日本とバングラデシュ双方で暮らす人々に焦点が当てられています。

ホリプロバが訪れた大正時代の日本の日常を撮った映像コンテンツがほとんど存在しないことから、旅行記を可視化するために用いられている映像は、1953年に制作公開された小津安二郎監督の『東京物語』からの借用です。戦時下を含むその間40年の日本社会の変化を思うと、日本の私たちの目には若干の無理があるようにも思えますが、小津監督が意図して描いた「失われつつある日本の家族の肖像」がそこに示されているとすれば、ホリプロバが見た大正時代の日本も、そう大きくはずれていなかったのかもしれません。

モカメル監督の計らいで、私たちが日本語字幕をつけた映画がYouTubeで公開されていますので、ぜひご覧ください(右写真をクリックするとサイトにアクセスできます)。なお、映画の中に引用されているホリプロバの旅行記の日本語訳は富井氏の翻訳を参照しつつ、字幕文字数制限内に収めるために短縮修正を加えています。

 

  • 仕事を求めて日本からダッカへ

この映画『日本妻』、またホリプロバの旅行記『あるベンガル婦人の日本訪問記』を見ると、2つのことに新鮮な気づきが得られます。1つは20世紀初頭に日本から「仕事を求めて」ダッカ(当時の東ベンガル)に渡った武田和右衛門の存在。もう1つはホリプロバに対する当時の日本の人々の反応です。

映画の中にはこの旅行記を発掘したモンズルル・ホク氏と渡辺一弘氏が登場し、当時の日本の時代背景や日本とバングラデシュの国際関係について、対話形式での解説がなされています。そこで言及されているのは、明治期から昭和初期にかけて執られていた日本からの海外移住政策、いわゆる「口減らし政策」です。農地を相続できない農家の次男三男が活路を求めて主に北米や南米に渡ったことは有名ですが、中には南アジア、当時の英領インドに渡った若者たちもいたということです。ホリプロバの夫、武田和右衛門もそのうちの1人で、愛知県古知野村から弟と共にダッカに渡り、ホリプロバの父ショシブシャン・バス・マリックが経営する石鹸工場で働いていました。

戦後の日本バングラデシュ間の若者の移動を振り返ると、主に国際協力等でバングラデシュを訪れる日本からの若者は少なくないものの、バングラデシュから日本を訪れる若者の方が数の上では圧倒的に上回っています。1980年代後半の日本のいわゆるバブル経済期には、バングラデシュから多くの主に若い男性たちが仕事を求めて日本に来ました。その中には日本の女性と結婚して日本に定住する人も少なくありませんでした。その後の入管法の改変や日本経済の落ち込みなどで一旦は急減したものの、近年再び日本を訪れるバングラデシュ人は増え、特に2010年以降「留学生」として来日するバングラデシュ男性が急増しています。その実態は(澤2024)に報告されています。

現代のバングラデシュから日本への移住と、明治時代の武田和右衛門のダッカへの移住で大きく異なるのは「逆方向」だけではありません。例えば、和右衛門は1903年にダッカに渡って以来ホリプロバと共に日本への一時帰国を果たすまでの9年間一度も日本に連絡をしなかったのに対して、現代ではインターネット通信のおかげで日本とバングラデシュが容易に繋がり、バングラデシュから来日した男性たちは日本での日々の生活を毎日バングラデシュの家族と共有していることでしょう。

 

  • 珍しい「外国人」のホリプロバ

ホリプロバの旅行記(富井敬訳)には次のような記述があります。

 

皆が私を見たがったせいでできた人だかりの中にいるのが辛くなり、義弟が人垣を押しのけて私を家の中に引っぱって行き、部屋の戸を閉めて人目から閉ざしてくれるという一幕もあった。それでも私をぜひ見たいという人たちが2、3分でいいから姿を現すようにと言ってきた。宗教的な行事があれば多くの人が集まり、私は招待された。外国人をめったに見ることのないこのような村や町では、道を歩くだけで大変な思いをした。

 

バングラデシュの村に滞在したことのある方なら、ホリプロバが日本で経験したこの「大変な思い」にシンパシーを感じる人も少なくないのではないでしょうか。私自身も北部ジャマルプール県の農村でフィールドワークを始めたばかりの2000年当初、毎日のように、近所の人々から少し離れた所に暮らす親戚知人に至るまで「あなたを見に来ました」と言って、ホームスティ先のベランダに人だかりができることしばしばでした。祭りや結婚式には必ず招待されて、時には主役の新郎新婦より注目を集めてしまうこともありました。常にじーっと見られることに「動物園のトラ(Chiriyakhanay bagh)になった気分」と疲れることもありましたが、今思えば、見に来てはあれこれ尋ねられることでベンガル語を覚え、祭りや結婚式の参与観察は「機会が向こうからやってきた」ことに感謝しています。

日本ではいつから「外国人をじーっと見るのは失礼」という感覚が浸透したのでしょうか。海外からの訪問者に好奇心を抱く大正時代の日本の人々のホスピタリティは、どこかバングラデシュのホスピタリティに似ていたのかもしれません。またホリプロバは義母や家族について次のようにも述べています。

 

この国の人たちの私へのもてなしぶりには驚くしかない。義母をはじめ親戚たちは私が辛い思いをしないようにと常に気を配ってくれた。(省略)私が外国人だからと忌み嫌ったりするどころか、私が楽しめるようにと皆が常に気を使ってくれていた。

 

このように、ホリプロバの日本旅行記、さらにホリプロバと和右衛門の国際結婚には、日本とバングラデシュの日常レベルでの繋がりや親近感が詰まっています。また、ここでは言及しませんでしたが、ホリプロバは3度目の来日時にスバス・チャンドラ・ボース(Subhas Chandra Bose)に会い、さらに「中村屋のボース」として知られるラース・ビハーリー・ボース(Rash Bihari Bose)からの要請で戦時下の「ラジオ東京」でベンガル語放送を担当していたことも、映画では紹介されています。さまざまな点で日本とバングラデシュの過去と現在を思わせるホリプロバの旅行記とその映画『日本妻』、ぜひご覧いただければと思います。

 

文献資料

ホリプロバ・タケダ、富井敬(訳)1999「あるベンガル婦人の日本訪問記」『遡河』10:33-47

ホリプロバ・タケダ、富井敬(訳)2002「あるベンガル婦人の日本訪問記(続編)」『遡河』13:68-75

澤宗則2024「在日バングラデシュ人の集住地『リトルダッカ』の形成―東京都北区東十条・十条を事例に」『移民研究』20:1-46(沖縄移民研究センター)

 

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