日本バングラデシュ協会 メール・マガジン126号(2024年4月号)  巻頭言:『バングラデシュの隣国インド・トリプラ州:第2回』  ジェトロ・アジア経済研究所理事  日本バングラデシュ協会監事  村山真弓

■目次
■1)巻頭言:『バングラデシュの隣国インド・トリプラ州:第2回』
                             ジェトロ・アジア経済研究所理事
                             日本バングラデシュ協会監事
                             村山真弓

■2)寄稿:『第12次バングラデシュ選挙日本政府派遣国際選挙監視団参加報告(前編)』
                             元国連選挙担当官・元JICA専門家
                             黒田一敬

■3)会員寄稿:『ダッカ大学・S. M. アリ・レザ教授の公開講演会
                             「民主主義と経済発展:日本モデルとバングラデシュ」を終えて』
                             立教大学異文化コミュニケーション学部
                             日下部尚徳

■4)シリーズ:バングラデシュ料理その3:『ボッタ(ボルタ)が添えてあるしあわせ 』
                             バングラデシュ料理レストラン「トルカリジュッティー」シェフ
                             緒方いずみ

■5)お詫びと訂正

■6)『イベント情報』

■7)『事務連絡』

■8)『読者のひろば』
・メルマガ2月号の各寄稿への読者の感想をご紹介します。

■9)『編集後記』

■1)巻頭言:『バングラデシュの隣国インド・トリプラ州:第2回』
                             ジェトロ・アジア経済研究所理事
                             日本バングラデシュ協会監事
                             村山真弓

【はじめに】
昨年12月号のメルマガで紹介したトリプラ州についての雑感の続きになります。相当昔のことですが、バングラデシュの歴史について読んだ中で、今のコミラ(クミッラCumilla)県はトリプラの一部だったという記述があり、当時はそれ以上調べたりすることはなかったのですが、頭の片隅に残っていました。
改めて調べたのは、つい最近のことです。シレット県もかつてはアッサム州の一部だった時期があったように、1947年に現在のバングラデシュ国境がほぼ定まるまでは、今とは異なる地域のまとまりがあったことは確かです。それでもクミッラとトリプラの関係は、前者が英国の直接統治下にあり、後者がトリプラ人の王を擁する藩王国であったことを考えると、ともに英国の直接統治地域であったシレットとアッサムの関係とは異なるようです。

【トリプラ人の王朝】
トリプラの州名の由来の一説が、同州を中心に暮らしているトリプラ人の名前から来ているということは前回お伝えしました。トリプラ人は、チベット・ビルマ語族に属するインドにおける少数民族で、トリプラ州で規定されている19の指定トライブの一つです。2011年の国勢調査によれば同州のトリプラ人の人口は約60万人で、州人口全体の16%を占めています。トリプラ州のユニークな点は、このトリプラ人による一つの王朝が1949年まで続いたことです。
トリプラの王国の祖は、インドの大叙事詩『マハーバーラタ』に登場する月族の流れを引くドゥルヒユとされています。父王の怒りをかったドゥルヒユはガンジス川に沿って南下し、ベンガル湾に近いシュンドルボンに定住しました。やがてドゥルヒユの子孫らがアッサムのブラフマプトラ川流域に、そしてシレットのボラク川流域に、さらにトリプラのグムティ川流域に移動していったとされています。
トリプラの歴史の始まりは、様々な人々の移住によるものでした。初期の移住者には、トリプラ人以外にも、ベンガリ、モグ、クキ・ルシャイ、リャンと呼ばれる民族がいました。その中でなぜ、トリプラ人が政治的に有力になったのか、逆に肥沃な土地で耕作に従事し、より豊かで人口も多かったベンガル人の王朝が伸張しなかったのはなぜでしょうか。ある研究書によれば、ベンガル人集住地域では、グプタ朝やゴウル朝、パーラ朝、セーナ朝下の封建領主が次から次へと権力を奪取し、その状態はイスラーム勢力がその地を征服するまで続いたことと、トリプラ丘陵地帯の野生の動物や病気などがベンガル人の進出を阻んだことが理由であるといわれています。他方、トリプラ人の支配者は、ブラフマプトラ川流域から徐々に南下し、交易も盛んになり人口も増えていきました。支配者は現ビハール州。ジャールカンド州にまたがるミティラー地域からブラフマンの司祭を招致したり、寺院や池等の整備に尽力したりしました。これによってインド、ヒンドゥー文化の受容が進展していきました。ムスリムの進出を受け、トリプラ勢力はさらに南下し、他の少数民族との闘いに勝利しながら現在のトリプラに定着しました。
13世紀初め、西方からのムスリム勢力の伸長でベンガル地方がムスリム権力者によって掌握されたことは、ヒンドゥー王国トリプラにとっては、ベンガルのスルタンとの衝突と懐柔の時代の到来を意味しました。ルビーを意味するトリプラ王のタイトル「マニキヤ(あるいはマニッコ)」は王ラトナが、ベンガルのスルタンにルビーを献上し、代わりに下賜された称号です。ダニャ・マニキヤ王の時代、トリプラ王国と版図は最大となり、チッタゴン(現チョットグラム)、ノアカリ、クミッラ、ブラフモンバリア、シレットまでがトリプラ王国に併合されました。またダニャ王はベンガル語を国語と定めました。

【チャクラ・ロシャナバード:平地のトリプラ】
英国による植民地化、特にベンガルがムスリムから英国人による支配に移ったことで、トリプラはムスリム勢力との絶え間ない戦いから解放されることになりました。英国はトリプラに対して一定程度の自治を認めつつ間接統治を行いました。英領期に、トリプラは丘陵地帯のトリプラ藩王国と、平地のトリプラに分けられました。チャクラ・ロショナバード(チャクラは「円」、ロショナバードは「光の土地」の意味)と呼ばれた平地のトリプラは、英領以前のムガル帝国の時代に、ベンガルを支配していたムスリム勢力が、トリプラ王国のお家騒動へ介入し、同勢力が支持するトリプラ王家の一員に与えられたものです。その後、東インド会社の支配地域となり、さらに英国の直接統治期を通じてチャクラ・ロショナバードは、土地所有徴税制度ザミンダーリ制に組み込まれ、トリプラ王は同地のザミンダールとして植民地政府への納税を課されることになりました。つまりトリプラ王には、丘陵トリプラ藩王国の藩王と、チャクラ・ロシャナバードのザミンダールという、二つの顔があったことになります。

【チャクラ・ロショナバード:現在の文脈】
チャクラ・ロショナバードは現バングラデシュのシレット、クミッラ、ノアカリにまたがる地域です。現在のバングラデシュでチャクラ・ロショナバードという地名が使われているのか、是非地元に詳しい方に聞きたいのですが、少なくともトリプラでは残っています。その一つが、州の工業局のウェブサイトが記述するように、トリプラが失った連結性(コネクティビティ)が、この地域を通じてのものだったという指摘です。
もう一つは、前回ご紹介したように、現在同州の人口の7割を占めるベンガル人の主な出身地としてのチャクラ・ロショナバードです。丘陵トリプラへのベンガル人の移住は19世紀半ば以降増加し、20世紀初頭には5割を上回っていたトリプラ人を含む先住のトライブと、非トライブの人口比は逆転しました。ムスリム・ベンガル人の流入は、他のインド北東州と同様、トリプラでも政治的、社会的にセンシティブな問題です。他方で、チャクラ・ロショナバードは、トリプラ藩王の荘園として、藩王国にとっては最も重要な歳入源でした。インド・パキスタン分離独立後に移住してきた同地域出身者の位置づけは、一種のタブーとみなされてきた、結論が出ない問題となっているようです。

 

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