日本バングラデシュ協会 メール・マガジン 130号(2024年8月号) 巻頭言:『憧れのオールド・ダッカ (前編)』 日本バングラデシュ協会監事 村山真弓

■1)巻頭言:『憧れのオールド・ダッカ (前編)』
日本バングラデシュ協会監事
村山真弓
■2)寄稿:『バングラデシュに次に行ったら』
トルカリジュッティー店主
緒方いずみ
■3)寄稿:『日本とバングラデシュを繋ぐ夢の
ハッカソンコンテスト「CODE SAMURAI」』(後編)
株式会社BJIT
辻出 悠斗
■4)会員寄稿:『ベンガル語のふたりの先達 ② 奈良毅教授(後)』
元理事
渡辺一弘
■5)『事務連絡』
■6)『読者のひろば』
・メルマガ7月号の各寄稿への読者の感想をご紹介します。
・メルマガ寄稿への感想ほか、お気づきの点など、なんでもお寄せ下さい。
■7)『編集後記』

■1)巻頭言:『憧れのオールド・ダッカ (前編)』
日本バングラデシュ協会監事
村山真弓

皆さんはダッカで好きな場所がありますか?

【住みにくい都市ダッカ?】
バングラデシュの首都ダッカは、世界でも最も住みにくい都市の一つに数えられています。『The Global Liveability Index 2024』によれば、世界の代表的な173都市のうちダッカは168位でした(ダッカより低かったのは、下からダマスカス、トリポリ、アルジェ、ラゴス、カラチです。ちなみに第1位はウィーン、大阪が9位とトップテン入りしています)。
この指標は、安定性、ヘルスケア、文化と環境、教育、インフラの5つのカテゴリーに基づいて評価するもので、ダッカの総合指数は100のうち43で、あらゆるカテゴリーにおいて、住みやすさに重大な制約があると評価されています。5つのうち比較的高かったのは教育面(指数66,7)で、最も低かったのがインフラ(同26.8)です。興味深いのは、ダッカを含むワースト10都市のなかで、ダッカは安定性に関しては最も高い指数を示していました(同50.0)。安定性とは、犯罪発生、テロの脅威、軍事的対立、市民間の対立が評価基準なのですが、7月に発生した公務員採用クオータ問題を発端とする騒乱で、残念ながらこの指標は低下するかもしれません。
こうした「客観的」な見方はさておき、住めば都で、ダッカにも良いところもあれば嫌なところもあるという普通の生活の場になります。ただし、そこに一時期住んだからといって、その町についてよく知っているかというと、そんなことはありません。私の場合、暮らしたことがあるのはグルシャン、バリダラといった外国人の多い、いわゆる高級住宅街で、地元でのご近所付き合いや、街歩きを積極的に行ってはいませんでした。それから四半世紀も経った現在、あらためてダッカに興味を持っています。なかでも憧憬の場所はオールド・ダッカで、いつか一定期間滞在してみたいという気持ちが強くなりつつあります。
オールド・ダッカと言えば、ショドルガートやラルバーグ・フォート、アフサン・モンジル等の観光地や、ビリヤニ等のレストランで有名です。卸売りが中心といわれる商店が面する細い路地は、リキシャがすれ違うのも困難です。それらすべてがエキゾチックな魅力にあふれています。
オールド・ダッカには独特の文化や社会経済的な特徴があると言われています。まだ実体験がないので、ここでは手元にある資料から、今回は、その特色を形成したオールド・ダッカの歴史についてご紹介します。

【ダッカの変貌】
ダッカの起源は古く、ブリガンガ川沿いの地の利は、人々を集め、商業活動を発達させてきました。今も残るLaxmi(Lokkhi)Bazar(女神ラクシュミー)、Tanti Bazar (Tantiは布取引に従事していた集団)、Shankhari Bazar(Shankhariは既婚ヒンドゥー女性が身に着ける、ほら貝のバングルを作る集団)といった地名からは、ヒンドゥー教徒の商人や職人の集住地域だった事がうかがえます。
現在のオールド・ダッカの成立は、1608年、現ダッカが、ムガル帝国ベンガル太守イスラーム・カーン(ハーン)によりベンガルの主都とされ、時の皇帝にちなんでジャハーンギールナガルと命名された事に始まりました。その後Islampurを初めムスリムにちなんだ地名が増えていきます。その後シャイスタ・カーン太守の治世下でムガル・ダッカは最盛期を迎え、現オールド・ダッカの地区が都市として形成されました。ちなみに、ベンガル太守の公邸として建設が始まったラルバーグ・フォートは、シャイスタ・カーン太守の監督のもと進められましたが、娘ポリ・ビビの死去でフォート建設を不吉なものと考えた太守により、未完成に終わります。フォート内にあるポリ・ビビの墓は、静謐で愛らしい魅力的な遺跡です。
当時、政府の役人や商人等富裕層に加えて、小売商、労働者、家内工場従事者など低所得層が現オールド・ダッカ地域に居住していましたが、商業の中心としてのダッカは、ポルトガル、オランダ、イギリス、フランス、アルメニア等ヨーロッパの商人、企業家らも惹きつけました。彼らは密集したオールド・ダッカではなく、現在も工場の集積地となっているテジュガオン地区に広々としたバンガローを建てて住んでいました。
1765年に東インド会社がベンガルの徴税権を獲得すると、ダッカは衰退します。その復興と新たな発展が見られたのは、1858年、イギリス政府による直接統治が始まった後の事です。1885年にはダッカとナラヨンゴンジを結ぶ鉄道が開通しました(ちなみに、日本の鉄道開業は、1872年新橋・横浜間でした)。翌年にはマイメンシンまで延伸し、鉄道線路がオールド・ダッカとニュー・ダッカの境界線となりました(後に線路が移設されたため、Hatkhola Sonargaon Roadが新旧ダッカの境界線と考えられています)。オールド・ダッカがムガル時代の産物であるように、ニュー・ダッカは英国植民地政府の手によって誕生しました。1921年に創立されたダッカ大学周辺のラムナ地区が行政の中心となりました。
1947年の分離独立後、ダッカは東パキスタンの州都となりました。パキスタン期にダッカの人口は急速に増加し、それとともに新たな住宅地や官庁地区、商業地区等が整備されていきました。私たちになじみのあるダンモンディ、グルシャン、ボナニ、ウットラが新しい高級住宅街として誕生し、またミルプールやモハンマドプールは、おもにインドからのムスリム移民を受け入れるために開発されました。ニュー・マーケットやスタジアムなど、ダッカのランドマーク的施設の建設もパキスタン期に完成しました。国会議事堂や多くの政府関係機関が位置するシェレバングラノゴルの整備が始まったのもパキスタン期です(独立戦争で工事は一旦中止され、国会議事堂が完成をみたのは独立後の1982年のことでした。)。
1971年のバングラデシュ独立後、ダッカは主権国家の首都として、さらに拡大を遂げています。北はサバール、ガジプーへ、南は橋の完成でブリガンガ川の反対側まで拡張が及んでいきました。大使館が集積するバリダラ地区の誕生も独立後のことです。さらに、ここ10年ほどのダッカの変貌は、皆さんの方が良くご存知かもしれません。高架道路、高速道路、メトロ、新しい道路の開通など目を見張るものがあります。2013年に完成したハティルジール(象の湖)は、かつてのスラム地区を豊かな水源と周遊道路に変え、グルシャン地区からショナルガオン・ホテルまでの所要時間を飛躍的に短縮しました。
こうしたニュー・ダッカの発展とは対照的に、オールド・ダッカは地理的な制約から、都市としての重要性を低下させていきます。例えば、物資の輸送には、オールド・ダッカの強みであった川よりも道路が中心的な手段となりました。それでも生鮮食料品等は、今も川で運ばれているものも多いようです。オールド・ダッカの特徴の一つは、そうした経済活動と住宅が一つの建物の中に混在していることです。ニュー・ダッカのカウランバザールやモティジール等の商業地区には住民が殆どいないのと対照的です。また、オールド・ダッカのそうした建物は、何世代も越えて住む複数の世帯が所有権を持っているそうです。
オールド・ダッカの昔からの住人はダカイヤ(Dhakaiya)と呼ばれています。固有の名前を持つダカイヤのコミュニティについて、次回はご紹介したいと思います。

 

この情報へのアクセスはメンバーに限定されています。ログインしてください。メンバー登録は下記リンクをクリックしてください。

既存ユーザのログイン