日本バングラデシュ協会 メール・マガジン108号(2022年12月号)巻頭言:『中世のムスリム詩人たち』東京外国大学大学院教授 理事 丹羽京子

日本バングラデシュ協会の皆様へ 
■目次  
■1)巻頭言:『中世のムスリム詩人たち』
                                   東京外国大学大学院教授
                                   理事 丹羽京子          
■2)寄稿『ロヒンギャ人道危機発生から5年を迎えて』
―NGO/NPOシリーズ-
                                   公益財団法人プラン・インターナショナル・ジャパン
                                   プログラム部
                                   倉橋功二郎
■3)会員寄稿:『国際エンゼル協会の40年をふりかえって(後編)』
                                   特定非営利活動法人
                                   国際エンゼル協会 代表理事
                                   東村眞理子
■4)理事寄稿:『第三者検査機関から見たバングラデシュ』
                                   一般財団法人 日本繊維製品品質技術センター 
                                   執行役員 海外事業所長
                                   理事 舟木 圭
■5)イベント、講演会 
■6)事務連絡
■7)『読者のひろば』
■8)編集後記


■1)巻頭言:『中世のムスリム詩人たち』
                                   東京外国大学大学院教授
理事 丹羽京子

【中世の詩を読む】
ここ数年来、ベンガル人研究者を交えて中世のベンガル詩の読書会をしている。ベンガル文学にはおよそ千年の歴史があるが、近代化の始まった1800年以前のベンガル文学はすべからく「中世の」文学ということになる。そして中世のベンガル文学はすべてが韻文であり、つまるところ詩編である。そのなかで最も良く知られているのがボイシュノブ・ポダボリ(Vaishnava Padavali) と呼ばれるヒンドゥー教ヴィシュヌ派の詩編で、これをここのところ読んでいる。これはヒンドゥー三大神のひとり、ヴィシュヌ神の化身であるクリシュナと牧女ラーダーの恋物語を詠った抒情詩群で、ベンガルの詩人たちはこの物語を実に数百年にわたって繰り返し詠ってきた。
実はわたしはもともと古いものは苦手で、今でも中世詩には不得意感がぬぐえないのだが、それでも続けているのには理由がある。タゴールも幼少時から親しんでいてその影響著しいと言われるこれらの詩編を読まないわけにはいかないという事情もあるが、別の個人的な関心からもこれらの詩編に注目してきた。それは数十年前のこと、はじめてボイシュノブ・ポダボリを目にした際に、数ある詩人のなかにムスリム名が散見することに気づき、それがずっと気になっていたのである。すでに述べたように、ボイシュノブ・ポダボリはヒンドゥー神話の一種であるクリシュナとラーダーを詠ったものである。仮にもムスリムである詩人がこのヒンドゥー神話を詠うという事実になぜか心惹かれたのだ。

【ムスリム詩人のラーダーとクリシュナ】
例えばグンラジ・カーン(Gunraj Khan、15世紀)という名の詩人はこのように詠う。

黄色を身に纏ったクリシュナは
湧き上がる雲に輝く雷のよう。
比べるものとてない、月のような
その顔に浮かぶのは輝く汗。
その動きはセキレイの踊りのよう
それを見て若い女たちの心はざわめく。

 あらゆる女性を惹きつけたと言われるクリシュナの魅力を詠った一節である。あるいは、クリシュナが去って悲しみに暮れるラーダーをグンラジ・カーンはこのように語る。

わたしの口からなんと酷いことばが出たのだろう
だからノンドの息子(クリシュナ)は去ってしまった。
ああ、神よ、わたしの命はなぜ消えてなくならないのか
命をなくせばゴーヴィンド(クリシュナ)と会えるものを。

別のムスリム詩人ショイヨド・アラオル(Syed Alaol、17世紀)は、クリシュナとの逢引から戻ったラーダーがノノディニ(義姉)に咎められ、言い訳をする場面を次のように詠っている。

(ノノディニ)
うちの嫁が世界を誘惑して
朝早くからヤムナ河に行って
一日が終わり、夜が訪れた
なぜこんなに遅くなったのか
(ラーダー)
朝のうちに蓮を見て
それを摘みに行ったのよ。
陽が昇って、花が閉じてしまい
蜂たちがわたしを刺したの
蓮の棘にもひどい目に遭って
付けていた腕輪を落としてしまったの
腕輪を探して水に潜っているうちに
一日が終ってしまったのよ。

こちらはパラガーンと呼ばれる各々が台詞を語る形式で書かれているため臨場感がある。それはともかく、それぞれの作詩には個性が見られるにしても、いずれもほかの詩人たちの作と並ぶ正統的なラーダー・クリシュナの物語となっていることは間違いない。

【ムスリム詩人の来歴1 グンラジ・カーン】
名からすれば明らかにムスリムであるこの二人の詩人の来歴をもう少し詳しく見てみると、興味深い事実が浮かびあがってくる。
まず前者のグンラジ・カーンはスリクリシュノビジョエ(Srikrishnavijay, 15世紀)というクリシュナ神話の詩編の作者としても知られるが、この作品はサンスクリット語のバガヴァタ・プラーナ(Bhagavata Purana) のベンガル語訳にあたる。翻訳と言っても中世のそれはかなり改編されたもので、原典にはない一節が加えられていたり、叙述のスタイルがベンガル詩の様式になっていたりするので、翻案と言った方がいいかもしれない。それはともかく、中世の詩編はその最後に必ず作者の名前が冠されるしきたりで、このスリクリシュノビジョエの最後にも「~とグンラジ・カーンは語る」と書かれているのだが、このグンラジ・カーンという名前は実は本名ではない。
彼は本名をマラドル・ボシュ(Maladhar Basu)と言い、もともとヒンドゥーであったことがわかる。彼はサンスクリット学者にしてヴィシュヌ派の神学者でもあったというが、そのような人物がなぜムスリム名を名乗ったかというと、この名はときのスルタンであるロクヌッディン・バルボク・シャー(Roknuddin Barbak Shah, 在位期間1459-1474)から与えられたもので、このスルタンこそが彼のパトロンであったらしい。つまりヒンドゥーのヴィシュヌ派学徒がサンスクリット語からベンガル語に翻訳をした功績で、スルタンからグンラジ・カーンという称号を賜ったというわけである。これをもってマラドル・ボシュがムスリムに改宗したかどうかはわからない。実際に改宗した可能性もなくはないが、特に改宗はせず、名誉ある称号としてグンラジ・カーンという名前を使っていたという可能性もある。

【ムスリム詩人の来歴2 ショイヨド・アラオル】
それに対して後者のショイヨド・アラオルは正真正銘のムスリム詩人である。アラオルは学識のある家の生まれにして、ベンガル語のほかに、アラビア語、ペルシャ語、サンスクリット語に通じていたという。しかし若いころに船旅をしていてポルトガル人の海賊に襲われ、誘拐された末に当時のアラカン王国で売り飛ばされた。始めはアラカンで騎兵(一説にはお付きの者のような役割とも)として働いていたが、その文才が知られるようになり、アラカンの宮廷に召し抱えられるようになったという。
彼はさまざまな作品を残しているが、そのなかで最もよく知られているのは「パドマーワティー」(Padmavati) だろう。この物語は、数年前にヒンディー映画にもなっているので、そのあらすじをご存知の向きもおられるだろうが、スリランカの王女パドマーワティーを巡る物語である。この話自体はおそらく伝説で、最初にそれを詩編として書いたのがアワディー(現在のヒンディー語地域の中世における文学用語のひとつ)の詩人、ジャーエシーである。アラオルはそれをベンガル語に翻案したのだが、このヴァージョンは広く流布している。

もちろんムスリム詩人たちはペルシャ詩も盛んに翻訳しただけでなく、預言者にまつわる詩編も残している。しかしそのスタイルは古くから存在するヒンドゥー神話の叙述スタイルに近いとの指摘もある。いずれにせよ、この時代のムスリム詩人には、サンスクリット語の素養のあるものが多く、先に挙げたラーダー・クリシュナの詩編からもわかるように、当時の詩世界が文化的にかなり混交したものであったことは確かだろう。こうしたありようを見ると、あらためてヒンドゥーであるとか、ムスリムであるということがどういうことなのかも考えさせられる。

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