日本バングラデシュ協会 メール・マガジン93号(1971年11月特集号)バングラデシュに救援を!(上)

日本バングラデシュ協会 メール・マガジン95号(1971年11月特集号)
日本バングラデシュ協会の皆様へ

バングラデシュの独立に寄り添う(1971 年 11 月特集号):バングラデシュに救援を!
■目次

1)はじめに
1. 寄稿:太田清和『バングラデシュに救援を!』市民運動

2)日本ベンガル友の会
1. 寄稿:奈良安紀子『亡夫 奈良毅と日本ベンガル友の会(その2)』
2. 手記:鈴木孝昌『私が遭遇したバングラデシュの夜明け(その2)』
3. 記事:ベンガル友の会 全国縦断キャンペーン(1971 年 11 月 13 日朝日・毎日)
4. 記事:青年、エリートコースすて全国募金行脚(サンケイ 1971 年 11 月 13 日)
5. 写真:新宿東口歩行者天国での街頭募金
6. 写真:鈴木孝昌氏とキャンペーン車
7. 寄稿:アンワールル・カリ-ム『バングラデシュ独立戦争の頃の追憶(その 2)』
8. 復刻:日本ベンガル友の会の活動報告
9. 復刻:佛所護念会会報 1972 年 1 月号『教団から衣類 1621 梱包 ベンガル難民に愛の手』

3)サルボダヤ
・記事:サルボダヤ青年部街頭募金『バングラデシュ難民に暖かい支援の手を』

4)連帯
・復刻:『日本バングラデシュ連帯委、この 1 年』

5)パキスタン外交官バングラデシュに忠誠宣言
1. 寄稿:太田清和『パキスタン外交官 2 名がバングラデシュ忠誠を宣言』
2. 記事:「バングラ・デシュに忠誠」書記官2人造反』(1971 年朝日)


 

■1)はじめに
寄稿:『バングラデシュに救援を!』 市民運動

理事 太田清和

 

1.日本と東パキスタンとの交わり
(1)ベンガルへの共感と日本への憧れ
1947年の印パ分離独立以来、日本は、西パより東パを重視し、身近に感じていた。
日本の戦後復興にあたり、東パは人口が多く、繊維・雑貨の輸出先として市場規模が大きく、工業化が遅れていたため、繊維機械の有望な輸出先であった。また日本人はタゴールを愛し、人種、モンスーン気候、稲作など近似している東パに親近感を覚えた。
西パは欧米と中東イスラム諸国に目を向けるばかりだった。東パは、欧米のみならず日本にも目を向けた。日本にはベンガルの英雄チャンドラ・ボースの後光が差しており、親日的だった。
パキスタンは、パンジャブの国軍とカラチの財閥の権益のための国造りを進めていた。日本はこれに違和感を覚えていた。中央政府に見捨てられ後進地域の東パにこそ、援助する必要がある。日本は、東パに対し、農業、肥料、漁港、製鉄などの開発協力を行い、対パ援助の2/3を振り向けた。先進ドナーのうち、東パへの援助が西パを上回っていたのは日本だけだった。欧米諸国のパキスタン外交は西パ外交だった。これに対し、日本のパキスタン外交は東パに重点を置いていた。1970年の時点で東パの在留邦人は、商社、援助関係者など、300人を上回っていた。日本人にはベンガルへの共感があり、東パ人にはアジアの先進国日本への憧れがあった。

(2)社会のあり方、人生の生き方
この1970年前後は、戦後25年を経て内外共にまさに岐路にあり、国際秩序と国内社会のあり方が見直された時期であった。
米国はもはや単独では自由世界を背負いきれないとし、ソ連も軍事競争に耐えきれないとして、東西融和(デタント)へと動いた。そこで中国の扱いをどうするかが焦点となった。
国内では、戦後の目標であった復興と経済成長を達成し、GNP世界第二位となったが、次の目標をどうするか、国と社会のあり方が問われた。戦後生まれのbaby boomerが大学生になり、人生をどうするか、自己模索をしていた。国/社会のあり方と人生の生き方への問いかけが、混じり合い絡み合った。ベトナム反戦、沖縄返還、日米安保、日中関係、公害など、次々とテーマが出てきて、大学紛争・学生運動が燎原の火のように広がった。日本社会で、色々な思想と行動が出てきて、激しくぶつかり合った時代だった。

(3)東パキスタンが注目を浴びる: サイクロン、総選挙、武力弾圧
外務省は、東パ住民の不満が深刻であると痛感していた。69年ヤヒア軍事政権が成立し、民政移管を約束したが、「東パの不満に解決の道を講じ、社会的混乱の再発を回避しつつ円滑に民政移管を実現することは、極めて大きな困難を伴うと考えざるを得ない」(1969年6月曽根駐パキスタン大使への訓達)と判断していた。
1970年11月、サイクロンと高潮が東パを襲い、20世紀最大とされる被害を出した。この悲劇により日本国民一般が初めて東パを意識することとなった。日本赤十字社に寄せられる海外災害への寄付金は、1960年代は100万円に達するかどうかの程度。ところが大阪万博の1970年、国民が海外に目を開いたためか、ビアフラ難民やペルーの地震震災に数千万円の募金が日赤に寄せられた。11月の東パ水害には、街頭、学校、職場など募金運動が盛り上がりを見せ、日赤に3億4080万円、駐日パキスタン大使館に2億9450万円の義援金が寄せられた。
注目の12月7日の総選挙では、東は東(アワミ連盟)、西は西(人民党)へと国民議会が真二つに割れる結果となった。アワミ連盟は、東パのほぼ全議席を取り、国民議会の全議席数の過半数を制した。外務省は、東パの自治権が拡大され、実質的に独立に向かっていくと予測した。但し、どういう道筋をたどり、実質的な独立へと向かうのか、その道筋が見えなかった。当事者のヤヒア、ムジブル、ブットーにも、どうなっていくのか分からなかった。

2.「バングラデシュに救援を!」市民運動
(1) 武力弾圧
3月25日に国軍が武力弾圧、大量の難民がインドに流入した。民主主義の原理、人道主義にもとる暴挙である。日本国内では多くの市民が、武力弾圧を非難し、東パ難民に同情し、バングラデシュを救援する運動を展開した。

(2) サイクロン/高潮被災救援とバングラデシュ救援
(イ)まず、70年のサイクロン/高潮被災の際に募金活動に当たった人々が浮かび上がってくる。早川崇、長谷川峻など国会議員、日本赤十字社、佛所護念会教団、オイスカ、東パ留学生などである。サイクロン/高潮被災支援運動により形成された東パ支援コミュニティ/ネットワークが、バングラデシュ救援ネットワークの原型となっている。
(ロ)次に、バングラデシュ救援ネットワークには国会議員やビジネスが入っていない。国会議員は公職の立場にあり、ビジネスも利害が絡むために、内政干渉と受け取られかねない運動への参加を控えたと理解すべきであろう。バングラデシュの独立が達成されるや否や、早川崇はじめ国会議員が、時を得たかのように前面に出て、旧日バ協会を結成する。これに大手商社など大企業が揃って加入する。裏を返せば、国会議員/ビジネスが参加しなかったために、バングラデシュ救援運動は、草の根の市民運動としての性格が前面に出たといえよう。

(3) 主な支援活動団体
(a)日本と亜大陸との橋渡しをしていたのは、亜大陸の学者/研究者や仏教界関係者であった。かれら知識人がリーダーとなり、学生/社会人の若者たちが募金活動などを担った。
その中心が『日本ベンガル友の会』(会長は奈良毅東京外国語大学助教授)である。日本ベンガル友の会は、東パ留学生と表裏一体となって、メディアへのアピール、講演会、難民キャンプ視察、街頭募金、全国縦断キャンペーンを行った。
また佛所護念会教団、孝道教団、マハボダヤ・ソサエティ、山手教会の会員などより、10万点を超える衣類の提供があり、各教団教会員が、東パ留学生と一緒に梱包など当たった。佛所護念会教団本部講堂(港区)、社会党神奈川県連本部(鶴見区)が梱包会場となった。東工大の千葉簾教授が指導していた少林寺拳法部部員がトラックで運搬した。まさに手作りそのもの。草の根の香りが立ち上る。
(b)『日印サルボダヤ交友会』(岡本光司「サルボダヤ」編集長)は、ガンディーの非暴力と融和により平和社会を建設しようとする運動である。日印サルボダヤ交友会は、月刊「サルボダヤ」でパの武力弾圧を厳しく追及し、ガンディー翁に近いJ.P.ナラヤンを招き講演会を行ったり、青年部を設立し、街頭募金活動を行った。
(c)『日本バングラデシュ連帯委員会』は、構造改革派の流れを汲み、新しい社会をバングラデシュに築こうとしていた。関西は鶴嶋雪嶺関西大学教授、東京グループは高野秀夫江戸川区議会議員が率いており、全国に緩やかなネットワークを築こうとしていた。社会改革を目指して行動的であるところが特徴。11月に、東パ外交官2名のバングラデシュへの忠誠宣言を支援し、また72年1月には、神戸に入港のパキスタン船舶からバングラデシュ人23名の下船を支援した。
(d)『ファーロブ』はエスペラント語学生約10名の集まり。FALOBは「東ベンガルの住人達に同胞としてふるまおう」のエスペラント語の頭文字をとったものである。東ベンガルを支援すべく、総理府、外務省に要望書を提出し、フセイン駐日パ大使やマスウッド参事官にインタビューしている。やや背伸びした感があるが、当時の学生たちが社会問題に強い意識を持っていたことを物語っている。

(4) まとめ
このような運動に対し、竹中均一元ダッカ総領事(1957~63 年まで7年間在勤)、桐生稔アジ研研究員、菰口善美(地理学者)は、ダッカ駐在経験があり、「東パでは一体何が起こっているのか? どこに注目すべきか? 今後どう動いていくのか?」をしっかりと見据えており、各団体との協議や、メディアへの発信を通じ、確かな座標軸を提供していたことも銘記されるべきである。
このように色々な思想と考え方を持つ人たちが、ゆるい連携を持ち、集会などで一緒となって活動していた。「バングラデシュに救援を!」というメッセージに共感する人たちが集まり、各団体の団員相互に顔見知りとなる、ささやかなコミュニティであったようである。街頭募金の看板もチラシも手作り。衣服の梱包も運搬も手作り。「バングラデシュに救援を!」市民運動は爽やかな風を吹かせたといえよう。

 

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