日本バングラデシュ協会 メール・マガジン(146)2025年12月号  巻頭言:『バングラデシュ1990世代』 神戸女学院大学国際学部・准教授 南出和余

■目次  
■1)巻頭言:『バングラデシュ1990世代』
                      神戸女学院大学国際学部・准教授
                      南出和余
                  
■2)寄稿:『バングラデシュにおけるジャマテ・イスラミの復権
-暫定政権の成立とイスラーム政党の制度的復帰』
                      立教大学准教授
                      日下部尚徳

■3)寄稿:『「バングラデシュ料理に魅せられて」第四回』
                      バングラデシュ料理研究家
                      川口由夏

■4)寄稿:『ベンガル語初学者からの脱却を目指して』
                      東京外国語大学 言語文化学部3年
                      杉田直斗
 
■5)寄稿:『バングラデシュとわたし』
                      東京外国語大学 国際社会学部 2年 ベンガル語専攻
                      富田菜月

■6)『イベント情報』

■7)『事務連絡』

■8)『読者のひろば』
・メルマガ11月号の各寄稿への読者の感想をご紹介します。
・メルマガ寄稿への感想ほか、お気づきの点など、なんでもお寄せ下さい。

■9)『編集後記』

■1)巻頭言:『バングラデシュ1990世代』
                      神戸女学院大学国際学部・准教授
                      南出和余

■舩戸良隆先生のこと
個人的なことで恐縮ですが、私が初めてバングラデシュに足を運んだのは大学3年生1996年の夏、NGO(アジアキリスト教教育基金)のスタディツアーに参加したのがきっかけでした。そのNGOの創設者で当時事務局長をされていた舩戸良隆先生(牧師)が10月24日に昇天されました。スタディツアーで初めてバングラデシュを訪れる学生たちの未熟なまなざしや率直な意見にも、常に耳を傾け、蔑む言葉以外はどんな言葉も否定せず、温かく見守ってくださる舩戸先生は、私が研究の道に進んでバングラデシュに関わり続けることを無条件に喜び、いつも応援してくださいました。先生と最後に交わした会話は、今年9月、私がバングラデシュから送った報告に対する「和余さん、バングラの発展ぶりは目を疑う程のものですね。果たしてこれでいいのでしょうか。舩戸」というメッセージでした。この先生の問いへの応答を考えながら、今後もバングラデシュに関わり続けていきたいと思います。

■バングラデシュの1990年代生まれ
2000年にバングラデシュ北部ジャマルプール県の農村で「子どもの社会化と教育の影響」についての人類学調査を始めた当初、私は子どもの生活世界を参与観察するために、現地NGOが運営していた小学校に毎日通い、小学4年生のクラスで半年間(その後2023−2024年に再度1年間)子どもたちと一緒に勉強したり遊んだり、放課後には村をぶらぶらしたり、という生活をしました。その後25年間、当時の38人の「クラスメート」の人生を追い続けています。子ども時代とその数十年後を見るBefore/Afterではなく、一人一人の人生に常に寄り添うことによって、人々の人生に政治社会情勢が大きく影響するだけでなく、個人の性格やネットワーク、偶然性がいかに人生を導くかを知ることができます。言うまでもなく、これはバングラデシュに限ったことではなく、私たちの人生も同じです。
統計学的データへの信頼が強い人には、38人の人生がバングラデシュの「ある層」を代弁しうるのかと疑問を持たれるかもしれません。しかし案外、結構「典型的」な部分が見られるものです。それは後で述べる日本の「団塊の世代」論にも通じます。
2000年代に小学校に通っていた彼ら彼女らは1990年代生まれで、ちょうどバングラデシュが民主化を回復し、独立直後から続く貧困対策・社会開発がピークを迎えた頃に生まれたこの世代は、生まれた時からさまざまな開発プロジェクトの直接受益者でした。そのもっとも大きな影響といってよいのが教育です。とくに農村部や都市部貧困層への初等教育の普及が進み、子どもたちは親が経験しなかった学校教育を経験するようになりました。また衛生環境や保健の改善によって乳幼児死亡率が低下したこともあって、現在人口がもっとも多いのもこの世代です。そして、30代を迎えた彼ら彼女らは、現在「人口ボーナス期」と呼ばれるバングラデシュの「経済成長」を根底で支えています。

■縫製工場で働くピンキー(仮名)
親世代の大半が農村で農業や小売業、リキシャ引等に従事していたのに対して、1990世代の仕事や生活、家族構造は大きく異なります。そして、上記38人のうち半数強の若者たちが、現在輸出型アパレル産業に従事しています。
ピンキー(女性、30歳)が働くダッカ郊外の縫製工場は、現在バングラデシュ最大規模のグループ会社下にあり、彼女はコロナ前の2019年からここの縫製部門で働いています。ピンキーは幼い頃に父親を病で亡くし、母親が彼女と妹を連れてダッカに家事労働者として働きに出たため、小学4年生までしか教育を受けていません。しかし縫製工場でのキャリアは長く、2009年からすでに16年。その間少しでも条件のよい工場での仕事を求めて、いくつかの工場を異動しました。今は同会社のアイロン部門で働く夫との共働きで、2人の子どもたちは村で夫の両親のもとで暮らし、マドラサ(イスラーム系学校)に通っています。夫婦それぞれ月収は15,500 BDT(≒2万円弱)。昨年の政変後の労働運動により賃金は若干上がったものの、それまであった残業がほとんどなくなったので、残業代で収入を補うことはできなくなりました。大規模会社だけあって工場施設は整備され、医療ケアや出産育児手当の支給などがあるのは他の工場より恵まれているものの、バングラデシュの物価の上昇もあって、共稼ぎでも生活はギリギリです。8時から17時まで1時間の昼休みを挟む1日8時間労働で、休日は金曜のみ。時給にすると約96円。現在、牛乳1リットル128円(105 BDT)、卵12個153円(120 BDT)を考えると、物価に対してその給与がいかに低いかが分かります。
現在の彼女の仕事はポケット付けで、1時間250個がノルマ。スーパーバイザーが常に彼女の仕事ぶりを監視しています。60分で250個、つまり1つのポケットを1、2、3、4のスピードで縫っては次に送り・・・これを絶え間なく8時間続ける、まさに「機械作業」です。実際に現在バングラデシュの縫製工場では機械化が急速に進んでいますが、それでも毎週のように新しいデザインの服を生産するには手作業以上に柔軟な手段はありません。工場は可能な限りの機械化によって労働者数を減らすと共に、ピンキーのような熟練労働者のノルマを増やし、その結果、失業問題が深刻化しているのも事実です。
ピンキーの「チャップ・ベシ」(「チャップ」とはストレスや圧力を意味するベンガル語で、「ベシ」はtoo much)「こんな生活長くは続けられない」という言葉に同調せざるを得ません。しかし輸出型アパレル産業が労働市場の大部分を占めるバングラデシュでは、農村出身で伝手の乏しい彼ら彼女らに、アパレル業以外の選択肢が用意されていないのです。

■経済成長下の若者たち
バングラデシュの1990世代を考える時、私の中には常に私の両親の経験が鏡のように映ります。父は戦中生まれ、母は戦後生まれの「団塊の世代」です。両親とも田舎の高校を卒業後、大阪に働きに出てきて知り合い、核家族を形成した、いわば「団塊の世代の典型」の下で私は育ちました。今から十数年前に、両親の協力を得て父母それぞれの中学高校の同級生の進路について簡単な調査をしたことがあります。興味深かったのは、若い頃の転職の多さです。日本では1960年代始めの高度経済成長下、終身雇用が浸透しつつあった高学歴者に対して、地方から都市に出てきた中学高校卒の若者たちは、良い条件の職があれば短期間で職を転々とし、その流れで独立する人も多かったようです。これは中小企業の多い南大阪の特徴かもしれません。18歳で親戚の伝手を頼って岡山から大阪に出てきた私の母も、20歳で父と結婚するまでのわずか2年の間にも1度の転職を経験していますが、その理由を尋ねると「社寮もあったし、仕事もそっちの方が楽だったしね」と。
もちろん日本の1960年代と21世紀のバングラデシュは背景が大きく異なり、一概に比べることはできません。けれども急速な経済成長の末端を支える労働は、その担い手が短期的にならざるを得ないほど重労働で、そして「次のステップ」が社会の中に用意され、人々が生活向上を享受できることこそが「成長」であることを思えば、ピンキーの苦労をその場限りの労働力として用いることは、あまりにグローバル社会を含めた「構造的搾取」と呼ばざるを得ない、そんな気がしています。

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