日本バングラデシュ協会 メール・マガジン94 号(2021年12 月号)巻頭言:『ハッサン・アジズル・ホクを偲んで』 東京外国語大学大学院教授 元理事 丹羽京子

日本バングラデシュ協会 メール・マガジン94号(2021年12月号)

 

日本バングラデシュ協会の皆様へ

■目次

■1)巻頭言:『ハッサン・アジズル・ホクを偲んで』

東京外国語大学大学院教授
元理事 丹羽京子

■2)寄稿:『バングラデシュの未来を拓く学校給食を』

特定非営利法人 バングラデシュ文化交流会
理事長 松本 智子

■3)会員寄稿:『ダッカ時代の思い出~「詩の朗読コンテスト」をめぐって~』

元国際交流基金派遣日本語教育専門家
前国際交流基金日本語国際センター専任講師
現中央大学・東京外国語大学オープンアカデミー講師
会員 白井桂

■4)理事連載:『バングラデシュの独立に寄り添う(1971 年 12 月):第三次印パ戦争』

-バングラデシュ独立・国交 50 周年記念シリーズ No.18ー

理事 太田清和

■5) イベント、講演会の案内

■6)『事務連絡』

 


 

■1)巻頭言:ハッサン・アジズル・ホクを偲んで

東京外国語大学教授
元理事 丹羽京子

【ハッサン・アジズル・ホク】

ハッサン・アジズル・ホク
(著名な写真家ナシル・アリ・マムン撮影)

11月15日、ハッサン・アジズル・ホクが亡くなった。
また一人、バングラデシュを代表する作家にして優れた知性の持ち主を失ったと思うとなんとも寂しい。
この人の作品をいつ初めて読んだかはさだかではない。だいぶ前に、どこかからハッサン・アジズル・ホクの短編集を出すという話が持ち上がって読み始めたように記憶している。その話はいつの間にか立ち消えになったが、ずっと気になって折に触れてその作品を読んできた。
ハッサン・アジズル・ホクは1939年に現インド、西ベンガル州のボルドワンに生まれている。生まれ育ったのは典型的な西側の村で、近くにモクトブ(イスラム教徒の子弟のための初等学校)がなかったため、ヒンドゥー教徒の子どもたちと一緒に小学校に通ったという。幼いころは特に宗教的なセクトを意識することもなく、村も平穏であったようだが、47年の分離独立で状況は一変する。このとき家族のほとんどは東ベンガルに移住するが、ハッサン・アジズル・ホクはしばらくその地に留まり、最終的に東側に移住するのはそれからだいぶ経った54年のことである。60年にラジシャヒ大学大学院を修了、のちに同大学の哲学科教授となり、定年まで勤めあげた。

【数々の短編、そして入魂の長編】
作家としてのキャリアは短編小説に始まり、64年の短編集『海の夢、凍える森』が処女出版となる。以来、一般的に長編が得意なベンガル作家とは異なる路線をハッサン・アジズル・ホクは進み、短編の名手として知られるようになった。
その彼が、2006年に満を持して発表した初の長編小説が『火の鳥』である。この小説は自身の母が語った話をもとにしており、その母の幼いころから始まって、結婚して子どもを持ち、少数派のムスリムとして西ベンガルの村に暮らし、そして分離独立直前の不穏な空気を経験し、ついに分離独立に至って移住の決断をせまられるまでがほとんど忠実に再現されている。しかしハッサン・アジズル・ホクはその結末だけを事実と違えた。母を含む一家のほとんどは実際には分離独立時に東側に移住したのだが、小説では、その母は家族から再三説得されても首を縦に振らず、ひとり移住を阻んでその村に残るのである。
これは、母が晩年になって半ば認知症を患いながら、なぜわたしを無理矢理こちらに連れて来たのか、どうしてわたしはここにいるのか、と繰り返し嘆いていたことと関係がある。ハッサン・アジズル・ホクは、その小説のなかでは母の希望を叶えたかったのだ。

【翻訳のいきさつ】
2016年ごろだったか、ハッサン・アジズル・ホクから突然電話がかかってきて驚いた覚えがある。すでにその作品は英訳を始め、ドイツ語訳やロシア語訳なども出ていたのだが、日本でも紹介してくれると嬉しいとのことであった。こうしてわたしはずっと宙に浮いたままだった古い翻訳を引っ張り出し、しかし結局は若書きであまりに不出来なそれらは捨て、すべて訳し直すことにしたのである。出版に際しては悩んだが、数少ない翻訳出版の機会を生かすべく、ハッサン・アジズル・ホク単独の短編集ではなく、バングラデシュのほかの作家二人とあわせて一冊とした。こうして選んだのは短編5編。孤独な少年の行く末が何通りにも読める「昼じゅうカンコンは」、独立戦争が始まったことを知らない主人公が銃弾に倒れてしまう「ブーションのとある日」、何不自由ないはずの若妻の存在の不安を描いた「クンクムの幸福」、父親が判然としない子を次々と産んでしまうお手伝いの少女を主人公とする「母」、そして独立戦争をまさに悪夢として描いた「名もなく家もなく」、いずれも印象的な作品だ。

ラジシャヒ大学構内に作られたホクの墓所

2019年に無事に本が出て、日本に留学していたことのある息子さんを通して手元に届けることができたのがせめてもの幸いであった。その返礼として届けられた直筆の手紙は、手元が不確かになっているのか、かなり歪んだ字で書かれていた。ほどなくして体調を崩し、療養生活に入ったと聞き心配していたのだが、ついに帰らぬ人となってしまった。
幾度となく自宅のあるラジシャヒを尋ねようと思いつつ、コロナ禍もあってハッサン・アジズル・ホクとはついに直接まみえることはないままだった。けれども敬愛する作家には、直接会う必要はないと思うのは単なる強がりではない。その作品がすべてを物語っているからだ。

※これらの翻訳は『地獄で温かい』(大同生命国際文化基金)に収められている。

 

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