日本バングラデシュ協会 メール・マガジン99号(2022年4月号)巻頭言:『非常時の愛の詩』 東京外国語大学大学院教授 元理事 丹羽京子

日本バングラデシュ協会の皆様へ
■目次
■1)巻頭言:『非常時の愛の詩』
                                   東京外国語大学大学院教授
                                   元理事 丹羽京子
■2)寄稿:『福岡とバングラデシュを結ぶ近現代美術』
                                   福岡アジア美術館
                                   学術交流専門員
                                   黒田雷児
■3)会員寄稿:『イスラマバードに住むチャクマ王国のプリンセス』
-Rajkumari Troya Triveni Royさんの語り-
                                   東洋大学社会学部社会福祉学科
                                   会員 小野道子
■4)理事連載:『バングラデシュの独立に寄り添う(1972年4月) 社会の混乱と復興支援』
                                   理事 太田清和
■5)イベント、講演会の案内
・ボイシャキメラ・カレーフェスティバル
・映画『メイド・イン・バングラデシュ』(岩波ホール)
・(写真展)わたし8歳、職業、家事使用人

■6)『事務連絡』

■1)巻頭言:『非常時の愛の詩』
                                   東京外国語大学大学院教授
                                   元理事 丹羽京子

【独立戦争の詩】
詩の世界においても、バングラデシュでは独立戦争をテーマにしたものがあまた書かれてきた。独立戦争の詩と言えばまず思い出されるのがシャムシュル・ラーマンの「独立よ、おまえは」だろうが、シンプルながらベンガル人のこよなく愛するシーンを列挙するこの詩は、独立戦争のさ中解放軍兵士の手から手へと渡され、国境を越えてインド側で印刷されたもので、兵士のみならず当時の人々を勇気づけ、そのプライドを今に語り継いでいる。
独立直後のバングラデシュの荒廃と嘆きをストレートに詠ったニルモレンドゥ・グンの「初めてのお客」も忘れ難い。「月までもが真っ赤に燃え上がる」炎や、「人の血の混ざる河」を描写したのちに、風はもはやただの風ではなく、「300万人のため息が」満ちると詩人は語る。戦闘が終わっても、バングラデシュはもはや昔と同じバングラデシュではないのである。詩人は、読むものにこの「だれも見たことのない」バングラデシュの初めてのお客になるようにと誘う。
独立戦争時のコルカタを舞台に、その欺瞞を描いたアル・マームドの「ブッドデブ・ボシュとの会見」もまた、ユニークな視点を持つ作品である。外交官たちの宴席で人ごとのように語られるバングラデシュの惨劇、これもまた現実であり、ここにも現実を昇華した詩がある。
そんな中、ショヒド・カドリの「君に挨拶を、愛する人よ」はひときわ異彩を放っている。ショヒド・カドリには、「禁じられたジャーナルより」のような、パキスタン軍侵攻直後のダッカの様子を生々しく描いた作品や、「鳥たちが合図を送る」のような、占領下の息詰まるシーンを映し出した作品もあるのだが、この詩はそれとはまったく趣を異にしている。なんといってもこれは愛の詩なのである。

【「君に挨拶を、愛する人よ」】
その詩はこのように始まる。

恐れることはない、
わたしがこんなふうに手配するから、
軍隊が薔薇の花束を肩に載せ
行進していくように、
そして挨拶するように、
ただ君だけに、愛する人よ。

目の前を通り過ぎる軍隊が、花束を抱えて恋人に挨拶するさまを詩人は夢想する。そしてその夢想は鉄条網やバリケードや装甲車もものともせず、恐ろしい現実を次々と変容させていく。

恐れることはない、わたしがこんなふうに手配するから――
手配しておこう、
B-52やミグ21が何機も何機も
頭の上をごうごうと飛んでいくだろうが、
恐れることはない、わたしがこんなふうに手配するから、
チョコレートやボンボンや菱型飴が
パラシュート部隊のように降ってくる、
ただ君の庭だけに、愛する人よ。

詩人の夢想はどんどん膨らんでいき、ついには戦争が終わり、あるいは始めから戦争などはなく、愛だけが存在するのだと語られる。

戦闘のすべての可能性は、わかってくれ、なくなるだろう――
わたしがこんなふうに手配するから、ひとりの歌い手が
いともたやすく敵の指揮官になるように、
国境の最前線で一年中見張りをするのは
赤や青や金の魚になるだろう――
愛を奪い合う以外はすべてが禁じられるだろう、愛する人よ。

この詩はまだ続き、インフレや生活苦も、「ベルの花の一輪でカーディガンが4枚買えるように」手配するから恐れることはない、と詩人は恋人に語りかけている。

【非常時の愛の詩】
殺戮や暴虐、恐怖や不信が溢れる世界、バングラデシュの詩や小説はそれを何度も何度も――そしてもちろんひとつとして同じものはなく、それぞれが独立した世界を持っているのだが――描いてきた。そうしたなかでこの詩の世界は、ほとんど絵空事のようにも思える。
ほとんど絵空事のようなこの詩はしかし、不思議な力を持つ。相次ぐ2度の独立と相次ぐ軍政や天災という未曽有の事態を乗り越えてきたバングラデシュで宣言されるこの「愛」は、お目出たさではなく、「それでも」愛を語ろうとする不敵さこそを印象付ける。この詩を「非常時の愛の詩」と呼んだ論評があったが、言いえて妙である。翻って見れば、ベンガル詩は過去1000年にわたって抒情詩――愛の詩――を中心に据えてきた。この詩は、その連綿と続く伝統が「独立戦争」という非常事態に出会ったときの、力強い変容だと言えるのかもしれない。

※「独立よ、おまえは」、「初めてのお客」、「ブッドデブ・ボシュとの会見」および「君に挨拶を、愛する人よ」はいずれも拙訳で『バングラデシュ詩選集』(大同生命国際文化基金)に収められている。

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