日本バングラデシュ協会 メール・マガジン102号(2022年6月号)巻頭言:『バングラデシュ美術教育のはじまり(1) ―文化人の拠点としてのダッカ美術学校』 福岡アジア美術館 学芸員 会員 五十嵐 理奈

日本バングラデシュ協会の皆様へ 
■目次  
■1)巻頭言:『バングラデシュ美術教育のはじまり(1) ―文化人の拠点としてのダッカ美術学校』
                                   福岡アジア美術館 学芸員
                                   会員 五十嵐 理奈
■2)現地便り:『バングラデシュ経済特区を開発』
                                   Bangladesh SEZ Ltd.
                                   社長 河内 太郎
■3)寄稿:『バングラデシュ移民について考える』
                                   UDトラックス勤務
                                   東京外国語大学ベンガル語専攻2022年卒
                                   エムディ・ファヒムル・アラム
■4)理事連載:『バングラデシュの独立に寄り添う』(1972年6月)
-バングラデシュ独立・国交50周年シリーズNo, 24 (完)-』
                                   理事 太田清和
■5)『イベント、講演会の案内』
■6)『事務連絡』


■1)巻頭言:『バングラデシュ美術教育のはじまり(1) ―文化人の拠点としてのダッカ美術学校』
                                   福岡アジア美術館 学芸員
                                   会員 五十嵐 理奈

近年、ますます興隆するバングラデシュ美術。その礎となったバングラデシュ近代美術の創成
期を、美術教育の立ち上げに関わった美術作家と美術学校の活動から3回シリーズで紹介
します。

バングラデシュにおける美術教育のはじまりは、まずは今回紹介するバングラデシュ最初の本格的な美術学校となった1948年創立のダッカ美術学校(現ダッカ大学芸術学部)にある。次に、絵画技法の訓練を重視したダッカ美術学校とは対照的に、個性と自由を尊重する教育で実験精神に富んだ作家を輩出したチッタゴン大学芸術学部(1958年創立)。そして最終回で、実はこれらの美術大学よりもずっと前、1904年に西部の都市クルナにザミンダールによって設立された知られざるバングラデシュ最初の美術学校、メヘシュワール・パシャ美術学校を紹介する。

ダッカ美術学校は、1947年のインド・パキスタン分離独立とともにカルカッタ(コルカタ)からダッカに移り住み、後に南アジア近代美術の巨匠となるザイヌル・アベディン(1914-76)やショフィウッディン・アフメド(1922-2012)らが中心となって設立された。ベンガルに生まれたムスリムの美術作家の2人は、カルカッタ官立美術学校で学び、卒業後に教師として教えるほどの才能の持ち主であったが、パキスタン独立を機にダッカに移り、東パキスタンにおける美術の活性化に身を投じた。ダッカ美術学校の授業カリキュラムは、2人が学んだカルカッタ官立美術学校に倣ったもので、西洋の絵画技法を徹底して訓練することが重視され、まずは絵画の基礎を培うことがすすめられた。
しかし、美術学校が設立されたものの、新生パキスタンというイスラームの国において美術を行うことは容易ではなかった。アベディンは、東パキスタンの美術を形作る使命を担い、美術学校の認知を高め、政府補助金の獲得を目指して、1951年に美術学校の教師、学生、外部の美術家による「第1回ダッカ・アート・グループ」展を企画した。当時ダッカに娯楽が少なかったこともあり、展覧会には多くの鑑賞者が訪れ、新聞等にも報道され、美術への好意的な状況を作りだすことに成功したという。さらに、この展覧会の実行委員会には、劇作家、教育者、批評家、文筆家、詩人など美術関係者以外の多くの文化人が参加しており、委員会は単に展覧会開催のための場ではなく、当時の政治・社会をめぐって議論が交わされる場となった。これを機に、次第にダッカ美術学校はジャンルを超えた文化人たちの活動の拠点となっていった。
イギリス植民地支配から脱した1950年代は、東パキスタンの文化人や学生たちが、進歩的な思想を深める時期であった。非宗教的(セキュラー)な政治、固有の文化の復興に目を向け、とくに反帝国主義、不公平・不平等のない社会を求めて共産主義への共感を持って活動する文化人、作家、美術作家は多かった。アベディン自身も、カルカッタ在住時、1943年のベンガル大飢饉の際に、安紙とインクをもって町に出て飢餓に苦しむ人々の様子を描いた《飢餓スケッチ》を発表し、インド共産党新聞『People’s War』に掲載されるなど(右図)、一躍社会派の作家として英領インドで名を馳せた。また、この美術学校の第一期生となった18人の男子学生たちのなかには、政治デモのバナーを描いたり、高校時代から共産党の学生同盟でポスターを描くなどして活動していた学生もいた。「当時、美術を学ぶということ自体が、ひとつの抵抗であった」と学生のひとりであり、1952年のベンガル語公用語化運動の活動家であったイムダット・ホセイン(1926-2011)は後に言葉を残している。
パキスタン時代のダッカ美術学校の教師や学生たちは、イスラームの国において美術作家であること、またベンガルの大地に住むベンガル文化を尊ぶ作家であること、社会不正義や不平等是正を求める政治的理想をもつ作家であることなどさまざまな理想や信条を抱いていた。こうした複雑な葛藤のなかにありながら、バングラデシュ独立へ向けた政治運動へと積極的に関わっていったのである。

この情報へのアクセスはメンバーに限定されています。ログインしてください。メンバー登録は下記リンクをクリックしてください。

既存ユーザのログイン